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永井和の日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-04-18「彎曲していく日常」でのコメント再掲 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

野原さんの日記「彎曲していく日常」2007年4月12日の記事のコメント欄に書いたものです。一部修正しました。また、脚注見出しは再掲の際にあとからつけたものです。

d:id:noharra:20070412#c1176735967

末端の部隊による拉致監禁性交強要と慰安所システムとの関係

永井です。

 ノーモアさんのところで、この中国フィリピンの例のようなケース*1について野原さんから質問があって、お答えしたことがあります*2。その時に述べ忘れたことをここで補足しておきます。

 なぜ、このような末端の部隊による拉致監禁・輪姦といった性暴力行使が、日本軍の占領地で頻発したのか。それは、この原告側の主張

日本軍組織に対応して,日本軍大隊以上の司令部のおかれた中都市大都市には必らず日本軍兵士用の『慰安所』がつくられた。しかしこうした公認の“強姦所”が一方に存在したことによって,山間の拠点に配置された将兵は自前で『慰安所』的な場所をつくり,女性たちを周辺の村々から拉致してきて監禁,輪姦することを何の問題も感じずに行うことになった。本件はこの面からも,全軍に『慰安所』をくまなく作り,兵士に性暴力を公認した日本軍そのものの責任が問われなければならないのである。」(「中国人慰安婦』第二次訴訟」(一九九六年提訴)に対する東京高裁判決正本22頁)

にあるように、日中戦争下において慰安所が日本軍の編成に組み込まれてしまったからです。

 陸軍でいえば、大隊以上の部隊には慰安所を設置する権限がみとめられていました。慰安所は戦地の軍隊の編成上、必要不可欠な後方組織となったのです。日本軍の兵士に対する福利厚生施設はいたって貧困でした。その貧困な福利厚生施設のなかで、目玉になるのが慰安所だったわけです。

 いったん、そういう制度ができあがってしまいますと、慰安所のない部隊は、明らかに福利厚生の面で、他の部隊に比べて悪い待遇を受けていることになり、兵士が不満をもつことになります。

 自分たちのところにも慰安所があって当然だと、そう思うでしょう。また、指揮官も兵士の不満を宥めるために、慰安所の設置を考えざるをえません。海軍の設営隊での中曽根康弘主計大尉がそうであったように。

 軍としては、慰安所を軍の編成に組み込んだ以上、慰安所ではたらく女性の供給は責任をもってやらなければいけないわけですが、末端の部隊まではとても手がまわりません。そうすると、末端の部隊は、自分たちのための慰安所を自力でつくろうとして、いわば女性を「現地徴発」したわけです。「現地徴発」ですので、その「性的サービス」に対する対価は支払われません。というか、一方的な性的奉仕の強要になるわけです。

 ですので、それらのむきだしの性暴力行使は、日本軍の慰安所システムが産み出したものといってまちがいありません。

 こういうたとえは、あるいは不謹慎と批判されるかもしれませんが、日本軍の補給能力の貧困さゆえに、前線の部隊で十分な糧食の供給を受けず、「現地徴発」によって食糧を略奪したのと似たようなものなのです(というか、そもそも補給云々以前に、性欲処理施設を軍編成にくみこんだこと自体がおおまちがいであったわけですが)。


沖縄・慶良間の慰安所

野原さんの発言

現在話題になっているもう一つの問題「渡嘉敷島集団自決」に関連しても「

その際、千人余の朝鮮人男性が軍夫として、21人の朝鮮人女性慰安婦として慶良間諸島に連れてこられます。そして米軍の上陸前後に、日本軍迫害と虐殺によって数百人の軍夫が犠牲となり、慰安婦4人も非業の死を遂げます。

http://sabasaba13.exblog.jp/2977371/

といった文章が見つかりました。

慰安婦が連れてこられた時期は分からなかったけど、おそらく数ヶ月後の必敗が十分予測できた時期なのではないか。

そうだとすれば、軍部が慰安所をいかに必須のものと考えていたかの証拠になりますね。

野原さん

慶良間には、陸軍の海上挺進戦隊という水上特攻部隊(爆弾を積んだボートに乗って、連合軍艦船体当たりする部隊)とその支援部隊が駐屯していました。これらの挺進隊が編制されたのが1944年の9月頃ですので、慶良間への進出はそれ以降、つまり1944年末頃でしょう。沖縄戦がはじまる半年前くらい。

 朝鮮人軍夫は特攻基地の建設と作業のために派遣され特設水上勤務隊というのに、所属していました。軍夫は軍属であり、慰安婦軍属だったり、でなかったりしますが、日本軍をまさにその肉体によって、組織の最底辺において支えていた軍要員です。しかも、その役割が認められることがほとんどない、陰の存在です。

 挺進隊は規模としては歩兵大隊くらいのものですが、慰安所が付属していたのですね。これは私の漠然とした推測にすぎませんが、慰安所が付設されていたのは、この部隊が特攻部隊であったことと、あるいは関係があるかもしれません。

 もちろん、沖縄の他の部隊にも慰安所が付設されていたのは、ご存知のとおりです。

 あと、沖縄戦の前後から、本土でも決戦準備のために、本土駐屯部隊が全面的に戦時動員部隊となります。戦時動員部隊となると、慰安所の付設が認められることになります。陸軍の規則からすると、慰安所は編成上は動員された部隊(野戦部隊)に付設されるのであり、常設部隊には付設されません。

 私もまだ調べていないのですが、1945年に動員された日本内地の本土決戦部隊に慰安所があったのかどうか(南方・沖縄の第32軍のほかに、北方の第5方面軍には付設されていたと思います*3)、検討を要する問題です。

慰安所は動員部隊(戦時編制)にのみ許される施設

野原さんの発言

そうなのですか。やはりなんとかいっても慰安所とは公娼制度のようなものといったイメージを持つので、ドンパチやってる前線ではなく一歩も二歩も下がったところに在るべきものと思ってしまいます。ある意味でそれは逆なのですね。軍隊平和な地域にある常設部隊なら、まさに純然たる民間の公娼でまにあうわけだ。

沖縄は小さな島なのにやたらと慰安所があったみたいですが、やはり戦闘前夜みたいなストレスが高まるほど慰安所も設置されるということなのでしょうか。

やはりその、日本軍独特の文化ということなのですかね。

野原さま

ある意味でそれは逆なのですね。

 

 そうです。逆なのです。慰安所は戦地に派遣される動員部隊にのみ許される後方施設なのです。

 日本国内にある常設部隊にはそのようなものは存在しません。そんなものを付設すれば、皇軍は天下の笑いものになって、その権威の失墜は免れませんから。ですので、動員部隊である本土決戦部隊に慰安所が付設されたかどうかに興味があるわけです。

 

 なお陸軍の場合、戦時編制(動員部隊)と平時編制(常設部隊)ははっきりと区別されています。人員数はもちろん、装備から付設部隊の構成まで、大きく変化します。

 満州国に駐屯していた関東軍には、一部を除き、最初のうち慰安所は付設されていませんでした。関東軍全体に慰安所が付設されるようになるのは、関東軍が戦時動員される関特演(1941年7月)以降です*4

 このとき慰安婦2万人動員計画がたてられます。実際には、2万人も集められなかったようですが、慰安所が普及したことは事実のようです。

 ですので、動員部隊に慰安所を付設するのが、その頃には軍編成上のルールになっていたようです。日中戦争中に生まれ、定着した日本軍独特の制度ということになります。

*1日本軍によって拉致監禁され、性交を強要されたケース。もはや「売春」の範疇とはいえないので、日本政府に対して訴訟をおこした、これらの中国人被害者女性を「慰安婦」と呼ぶことに対しては、慎重であるべきとの意見が、上記の野原さんの日記コメント欄で、mescalitoさんから出された。

*2:こちらのページを参照されたい。http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/5/2

*3北海道新聞社の特集「戦後60年戦禍の記憶」(2005/06/02(木))に、北千島の幌筵(パラムシル)島に慰安所があったとの元兵士の証言が掲載されていた。

*4:『朝日新聞2005年6月26日朝刊の投書欄に、旧満州の虎頭憲兵分遣隊の憲兵だった方の投書があり、昭和16(1941)年10月に、「関東軍管轄ノ各地区ニ於テ近ク『軍特殊慰安所』ヲ開設スルコトトナレリ当該駐屯地区司令部ハ然ルヘク建設資材等ノ便宜供与セラレタシ」との関東軍司令部からの公文書を受けとったことがあり、「司令部が支援することに異様な印象を受けた。前代未聞のことだけに、分遣隊内部で話題になった」と書かれてあった。

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