日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるのかということを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思い描いた言葉どおりに信じ込んでいるのである。 『ドイツ・イデオロギー』
070806
■ [memo][link] アマゾン書評欄において吐露されるシンジツ

RSSにひっかかったんで「よくわかる慰安婦問題 西岡 力
」のコメント欄を見てみた。最新のレビューはゼンゼンさんなる人で、その内容は次のとうり。
非常に論理的かつ検証の行き届いた著書である。
私は以前より『従軍慰安婦』というものが存在したという見解を漠然ともっていたが、疑問を感じ始めた矢先、『ナヌムの家』に行ってきたという友人と従軍慰安婦について議論となった。
友人いわく、『ナヌムの家には従軍慰安婦の被害にあったおばあさんがおり、その証言があるのであるから、日本は謝罪すべきである』とのことだった。
もちろんこの意見を受け、少ない知識で、反論をしたのだが、『証言があるのになぜ信じない』との反論。
確かに、従軍慰安婦が存在していたのであるならば、この主張も正しいように思える。
しかし、そもそも従軍慰安婦がないという結論がでている現在、証言のみをもとにして従軍慰安婦を肯定することは、本末転倒な主張であるとともに、検証もせず証言を採用することはできない。
もっとも私も知識が少なく反論という反論ができなかった。
そのため、より知識をつけようとこの著書を手に取った次第である。
感想は、非常に詳細かつ分かりやすく書かれている。これ一冊で十分であると思うが、肯定派の著書を比較検討すると非常に面白いことが分かる。
ほぼすべての肯定派の論拠は論破されており、残った主張は、感情論やこじつけ・証言を検証なくして採用した主張のみで全く論理性にかける主張ばかりが浮き彫りになるからである。
是非、こちらの著書は、国外の方にも読んでいただきたいものである、
もちろん国内の従軍慰安婦に興味のある方もない方も非常にお勧めの一冊であることは言うまでもない。
ナヌムの家では、現在もなお、日本の修学旅行生相手に『土下座』をさせ謝罪させているそうである。
このような著書が出版され論破されているにもかかわらず、未だ土下座をさせる韓国側には強い憤りを感じざるを得ない。
「 もっとも私も知識が少なく反論という反論ができなかった。 そのため、より知識をつけようとこの著書を手に取った次第である」一冊が西岡本で、「これ一冊で十分であると思うが、肯定派の著書を比較検討すると非常に面白いことが分かる」。つまり、ほかの本を読まずに、西岡本だけで結論しているということらしい。このレビュー子の読書傾向を眺めてみると、「シンジツをしりたい」系の偏りが見られるので、日本擁護という結論が先にあるのだろうから、まあ、実のところ歴史記述はどちらかというとデザインしていくという発想の持ち主なのだろう。それはさておき、たった今私は「シンジツをしりたい系」という造語を使ったのだが、この傾向のある人の典型的な判断様式は、レビューにもあるように「一蹴」といった明解単純さを好むことである。わからなくもない。ややこしいことはなんであれ間違い、という判断基準なのである。コイズミ元首相のスローガン演説が受けたように(「感動した」「自民党をぶっ壊す」とかのキャッチフレーズ、である)。
江川紹子さんが先日「安倍首相の強気を支えているものは…」なるエントリーで、安倍首相とカルト宗教の相似を指摘している。印象論でしかないのではあるが、ある程度なるほど、と思う部分もある。私が学生の時分に声をかけられた原理だのオウムだのによる勧誘文句はだいたいにおいて「本当のことをしりたくないのですか」という、内容が含まれていた*1。こちらからすればまたかよ、ということなのだが、同時に勧誘側の人の「シンジツをしらぬかわいそうな人」という優越感が感じられて私はますますげっそりしたのを思い出す。「これ一冊で」真実、という上のレビューにもどこか似たようなところがある。
「シンジツをしりたい系」を満足させ支持を得るためのレトリックとして簡単なパターンを考えることができる。すなわちもろもろの説明に対して「あなたはだまされている、だまされるな、シンジツはコレだっ!」と内容はどうであれ、そうした主張をすれば支持されるのだ。そのシンジツが自らのアイデンティティを快くくすぐるものであればなおよろしい。自足とともにシンジツを知りえている自分という愉悦もオマケで付いてくる。
こうした意味でのナショナリズムはどうやら多くの人にどうしても必要らしい、というマーケティング的な意味で私はこのところ理解しはじめた。明治期にも国家を形作る上でそうしたいわば伝統の捏造が起きたし、戦後すぐにも同じように「国家」は意味を付与された。歴史はその道具となった。重要なのはこうした操作的な伝統の創造が、「シンジツをしりたい」系の人々の手によってなされることであり、必ずしもゲッペルスのようなプロパガンダの天才がそれをデザインするのではない、ということである。
上の例もまた同様なのであり、単にそれを否定しても繰り返し起こってくる。ならばやはり本然にもどって国家とはなにか、と考える必要があるだろう。先日ナイジェリア人の医師と話していて、彼が「100年後に地球から国家なんてものはなくなっている」といったときに、そりゃSFだろう、実に難しい、と応答したのだが、少なくともそうした形で国家を相対化する発想を明示するのはよいのかもしれない。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/index.htm
>西岡本の読者にもぜひお勧めしたい
西岡本もそこと同程度だっちゅうか?