Hatena::Groupianhu

kmiura このページをアンテナに追加 RSSフィード


日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるのかということを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思い描いた言葉どおりに信じ込んでいるのである。    『ドイツ・イデオロギー』

私家版・従軍慰安婦問題のリンク集(2008・8)

070522

[][][] 伊藤桂一 00:58 はてなブックマーク -  伊藤桂一 - kmiura  伊藤桂一 - kmiura のブックマークコメント

7年従軍、戦後には詩人・作家。

従軍慰安婦関連の記述

「軍隊慰安婦―戦争と人間の記録」(金一勉 編著)

伊藤桂一

ASIN:4191447939

(初版1977年)

抜粋の転載

http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-341.html

http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-342.html

http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-345.html

記述1

時: 1943年から1945年の間(?) 

場所: "南京の近くの、かなり大きな町"おそらく蕪湖

証言者: 部隊本部の糧秣班

P.23~

私は、南京の近くの、かなり大きな町の部隊本部の糧秣班に2年ほどいた。おかげで、経済的、時間的に融通がきき、そんなことも手伝って、しまいには朝鮮人慰安婦のいる店の、慰安婦達の相談係-みたいな役目を、自然に引き受けるようになっていた。

朝鮮女性というのは、慰安業務をやっているくせに、日本兵には容易に心を許さない。これには民族的な事情が介在する。しかし、兵隊が特定の女に献身し、周囲がそれを認め、あの兵隊はみどころがある、ということになると、警戒が解かれ、彼女たちの生活心情圏へ、いくらでも入れてくれるのである。しかしその代わり、面倒も見てやらねばならぬ、ということになるのである。

どういう面倒を見るのかというと、彼女達の誰かが、前線にいる兵隊へ、ひそかに書信や品物を届けたいとき、また相手の消息を知りたいとき、あるいは軍隊内にしかない物資を欲しがるとき、さらに帰郷や結婚についての身上相談など、なにかと持ちかけられてくるものを、こまめに捌いてゆくのである。

(中略)

女の中にも、自分の特定の兵隊に、実にこまごまと気を遣うのがいて、みていると、まるで、戦場へ出張してきている世話女房にみえてしまうほど、もの馴れた言動を示す者もあったのである。戦場慰安婦が、単なる、戦場における性処理の対象物-だけでなく、少しでもゆとりがあると、そこに人間的な復活が行われてきた、ということをわかっていただきたいのである。

こういうふうに、女と、兵隊との間に特別の親しみが生じると、それだけに、別れたり、一方が戦死してしまったりすると、残る者の嘆きは深いわけである。自分の好きな兵隊の戦死した通報を得て、一ヶ月、喪に服して客を取らなかった女がいた。私が慰安所の相談係をしていたころ接した女の中にいたのである。きいても本人はいわず、まわりの者がそういっただけで、かえって実感があった。もっともこれは異例である。

中国人の女は、前述したように、生活苦から慰安婦をしている者が多く、兵隊とは事務的な肉体の交渉をするに尽きていたが、どうかして相互に感情の交流が芽生えると、それは際限もなく発展して、容易に、いかなる冒険に向けても挺身した。こわいものがないから純粋に燃えるのである。兵隊との逃亡や情死も、中国人の女が一番多い。

日本の兵隊に対して、最も献身的に親切だったのは、東南アジア、ことにタイの女性だったと言われる。これは、すでに、日本兵が敗けて収容所へ入っていても、なお、やって来て、その相手になってくれたのである。

P.26~

慰安婦も、置かれる場所によって、その運命も千差万別だったが、私のみたところ、その町における彼女たちの生活の実情について言えば、かなり恵まれていたのである。なぜなら、彼女たちは、みんな借金を抜き、結婚資金をたくわえ、かつ、結婚のとき持ってゆく、家具衣装箱も充分用意していた。あと、足りないのは、結婚する相手だけだったのである。この相手にしても、国に帰れば、いくらでもみつけることができるのである。要するに、長い辛酸の末に、彼女たちは、実に身をもって、自身の運命を切りひらいてきたわけである。これは、人間として、やはり立派だと言わなければならない。

考えてみれば、彼女たちにとっては、結婚-こそが、涙ぐましく切実な願望であり、おそらくそれだけを一縷の明るみとして、苦行に耐えてきたわけである。(話していると、口癖のように、お嫁に行く、と言う言葉が出た。)といって彼女たちは、日常を、苦行に耐えつつある深刻な表情で生きてきたわけではない。どちらかといえば、楽天的に身を処してきた。そうでなければ、生きられない。

私は慰安婦-という、いわば女として最低の賤業をしてきたにかかわらず、彼女たちが意外に、人情家で、涙もろく、親切で、人がよく、かつ内部に天性の純真な資質を持っているのに驚いたものである。おそらく、荒廃にそのまま身を任せるとほろんでしまうので、かえって、内部に結晶してゆくものを、大切に抱き育てたのではないか、と思う。

そしてまた、兵隊-と接触することによって、かれらと別れたり、かれらが死んだり、また、好きな兵隊を死なせた仲間の話に同情の涙をそそいだり、といった暮らしを経つつ、そこに自身達の情操をまもる、手がかりをみつけてきたりもしたのだ、と思う。

しかも、彼女たちと兵隊たちとは、同一の下層の次元の中に生活していた。ときに性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉-も、しばしば持ち得たのである。

ともかく、戦場慰安婦-というのは、ふしぎな存在だった、といわなければならない。そうして、かつて慰安婦だった人びと-は自らの口でそれを語ろうとすることはしない。さらに、かつて慰安婦を真情をもって愛した人びともまた、みだりにはそれを人に語ることはない。したがって兵隊と慰安婦の記録は、いつまでも、人それぞれの胸の中にだけしまわれている。

ただ、私には、戦場慰安婦というものの存在価値とその功績は、もう少し一般の人びとに、正しく理解されてよいもの、と思えるのである。

記述2

時: 1933年頃 (熱河作戦から推定)

場所: 黒竜江省の南部にある、ちょう南(ちょうはさんずいに兆)

証言者: 伊藤桂一さんは1938年から軍隊勤務なので、おそらく伝聞。

「満州事変」と慰安婦 P.27~

この作戦(熱河作戦)のはじまるまで、騎兵第二五連隊は、黒竜江省の南部にある、ちょう南(ちょうはさんずいに兆)という町にいた。内蒙との国境に近いので、域外には蒙古人の包(パオ)や、壁土で塗りかためた家を見ることもできた。こういう寂しい町でも、部隊がいれば、やはり慰安婦がいた。ちょう南には女達は約三〇人いたが、三分の二は朝鮮人である。

この当時の兵隊や慰安婦は、日中戦争後のそれとは、少々、趣きを異にしていた。どういうふうに違っていたかというと、満州建国前後の時代だから、兵隊にも慰安婦にも、国家草創の気分があった、ということである。

このあたりでは、冬季は夜、零下三〇度にくだる。乗馬隊だから、討伐に出て夜帰ってくると、手綱も凍るのである。疲れと寒さに耐えて、部隊が深夜にちょう南の駐屯地へ帰って来、城門のところへ来ると、そこにいつも(それがどんなに夜更けであっても)女たちは勢揃いをしていて、口々に「お帰りなさい」「ごくろうさま」といって手を振る。懸命に、心から、ねぎらいの言葉を発する。これは、原初的感情による、部隊と女たちとの涙ぐましい連帯と調和を示すものだったのである。

「城門のところで、女たちの声を聞くと、それでもう討伐の疲れはすべて忘れた」と兵隊たちは、みな、そう述懐したものである。もちろん、日中戦争時においても、慰安婦は本質的にそうした存在価値を持っていたが、この時代は、満州建国-という新鮮な感動が人々の心に満ちあふれていたので、いっそうにその関係が睦まじかったのである。

そうして、討伐から帰って来ると、隊長から一兵までが、酒をくみかわして、心おきなく騒ぐ。その騒ぎの気分に、女たちもまた、気楽にとけ込んだのである。



場所と時点を推測した資料

http://www.library.city.sakura.lg.jp/hondana.pdf

【私たちの師団は、南京を中心にして、周辺に散らばって、駐屯警備の生活をつづけていたが、私は、昭和十八年から二十年にかけて、揚子江岸のB県ーという大きな町の、部隊本部の糧秣班の仕事をしていた】94頁

伊藤桂一「忘れがたみ」『捜索隊、山峡を行く』所収 光人社

【私が昭和十八年のはじめに、佐倉の歩兵第百五十七聯隊に召集された時】31頁

伊藤桂一『小説の書き方』 講談社

【私は取材の際、こちらの軍歴もあきらかにする。これはいわば一種の仁義を切るに似たもので、昭和十二年徴集、元騎兵十五、騎兵四十一、歩兵百五十七各連隊所属、北中支派遣、実役六年十カ月の伍長と説明】84頁

【南京の近くの蕪湖という町には、祭兵団の歩兵第六十連隊が駐屯し、祭がビルマへ出たあとは鵄兵団の歩兵第百五十七連隊が駐屯したが】86頁

伊藤桂一『戦旅の手帳』光人社

【私は、昭和十七年いっぱいを内地で帰休し、出版社の編集見習のような仕事についたりしていたが、翌、十八年になって、召集令状がきた。すでに、騎兵の時代は終わっていて、私の召集された部隊は、千葉県佐倉の、歩兵第五七聯隊の留守部隊だった。歩兵第五七聯隊は、第一師団の隷下部隊として、中国に出動していたし、私たち新編成の部隊は、第六十一師団隷下の、歩兵第第百五十七聯隊である。別な呼称(兵団符号)では、鵄兵団の、鵄第三0六四部隊である。新編成の場合には、隊号の上に「百」がついた】286頁

伊藤桂一『私の戦旅歌とその周辺』 講談社

[追記 071217]

伊藤桂一氏

「螢の川」で第46回直木賞受賞、他に「悲しき戦記」「静かなノモハン」など。

1917年生まれで、1937年に徴兵検査を受け、1938年1月に現役兵として習志野の騎兵連隊に入営、約4年間を華北(山西省付近)で過ごし、1941年に上等兵になり、同年9月に日本に帰還し除隊になり、1年の休養後、1943年3月に召集され、今度は歩兵として中支(安徽省付近)へ送られ、終戦は伍長として上海郊外で迎えた。

http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-107.html

「僕が出会った気高き慰安婦たち」

記述3

「諸君!」2007年8月号 p136~151 僕が出会った気高き慰安婦たち

http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/index.htm

伊藤桂一(小説家・詩人)  聞き手 野田明美

思考錯誤

徴集について:

いや、僕もむろん、全容を知ってるわけではありません。

(中略)

僕らからすると、戦場慰安婦というのは、兵隊と同じ。兵隊の仲間なんです。本当に大事な存在だったんですね。いまよく言われているような、日本の官憲に拉致されて、泣き叫ぶのを無理やり〝性奴隷〟にされた、という話は聞いたことがないですね。

 当時は公娼制度があって、官憲が強制連行する必要などそもそもないし、本人たちも一応納得してーーむろん不本意だったろうし、悪質業者に騙されてということもあったでしょうがーーというのが建前だった。奴隷狩りなどではなく、きちんと筋を通して集められていたんです。

 慰安婦問題は千差万別で、慰安婦になった経緯もいろいろでしょうね。家が貧しかったり親が病気だったり・・・・・。本人たちにしてみれば、不本意だし悲惨な目にもあったでしょう。でも、それは悲しい現実で、昔からあることなんですね。

以下、軍が慰安所を作った話@やっしゃん より

p149~150より引用

伊藤:(略)軍は慰安所に無関係だった、あれは民間が勝手にやったことだという意見も耳にするけど、そんなことはない。僕は「慰安婦募集の一記録」という一文を書いたことがあります。満州にいた関東軍の第六国境守備隊隊長だった菱田という大佐が、北満州の西崗子という町に、軍の管理する慰安所を作ったという話です。

この人は、大佐には珍しく下情に通じた人だった。士官学校や陸軍大学校など日本の軍人育成学校の欠陥は、軍事は教えても人間のことは教えなかったことじゃないかと思うんですが、そのなかで珍しく兵隊の気持ちの分かる人だった。例えば、駐屯地にいる軍人、軍属の家族に「婦人の下着類を望楼から見えるところに干さないでくれ」という通達を出したことがある。望楼から双眼鏡で監視している兵隊を刺激しないように、という配慮なんですね。

彼の慰安所計画は、憲兵隊長の強い反対にあいます。“民間人がやるならともかく、軍みずから慰安所を作るなんてとんでもない”と。しかし、菱田部隊長は“君たちは料亭の女を専有してるからよい。兵隊たちは性の処理をどうするんだ”と反論して、これを認めさせた。民間人に任せると性病がこわいし、情報も漏れる。それならいっそ軍がしっかり管理して、慰安婦たちにも安心して働いてもらおうというのが菱田大佐の発想なんですね。

ーーその話は直接聞かれたんですか?

伊藤:菱田大佐の部隊にいた人に詳しく聞きました。その慰安所は「満州第十八部隊」と名付けられました。

慰安婦は、朝鮮の慶尚北道で募集し、志願してきた女性は軍属として、判任官待遇とする。玉代は四十分一円五十銭。衣食住は軍持ち。前借も無期限、無利子で自分の稼ぎによって返済する。つまり、稼げば稼ぐだけ、前借している金を返すことができるわけです。民間の慰安所の場合、楼主夫婦をお母さん、お父さんと呼んで擬似一家の構成にしているから、稼いでも途中でピンはねされてしまうという弊害があった。しかし、軍の慰安所にはそういう心配は、もちろんありませんでした。

そのほか、軍は管理するけど生活には干渉しないとか、そういった条件をきちんとうたって募集したんです。

ーー女性たちは集まったんですか?

伊藤:たちまち二百人集まったそうです。募集地を慶尚道にしたのは、あの辺りの女性は気質もいいし団結も強い、という理由だったそうです。慰安所の建物は、松、竹、梅と三つあって、一人に一部屋があてがわれた。壁に掛かっている慰安婦の外套の襟には、軍属のマークが縫い付けられている。判任官のものですから、上等兵より階級は上なんですね(笑)。


慰安婦の徴集に関する記述

http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070713/1184268701

『戦旅の手帳』 伊藤桂一著 (光人社、1986)

ISBN:4769802935:detail

騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのとつまり肉体的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。

『兵士達の陸軍史』 伊藤桂一著 番町書房 1969年4月

兵隊と、何らかの意味で接触する女性は、慰安婦のほかには中国民衆(つまりその土地の住民)、在留邦人、慰問団それに看護婦くらいなものだろう。このうち、慰安婦がいちばん兵隊の役に立ってくれていることは事実だが、慰安婦も多くは、騙されて連れて来られたのです

dempaxdempax2007/05/28 21:45> [documents][memo] 伊藤圭一
本文中の通り 伊藤桂一の誤記

kmiurakmiura2007/05/29 19:02ご指摘ありがとうございます。訂正しました。

トラックバック - http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070522