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日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるのかということを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思い描いた言葉どおりに信じ込んでいるのである。    『ドイツ・イデオロギー』

私家版・従軍慰安婦問題のリンク集(2008・8)

070520

[][] 宮谷重雄の証言(キーワード化の予定) 21:00 はてなブックマーク -  宮谷重雄の証言(キーワード化の予定) - kmiura  宮谷重雄の証言(キーワード化の予定) - kmiura のブックマークコメント

場所: 中国 洛陽

時: 1944年5月25日から数日後 

証言者: 師団経理部主計将校

備考: 軍による慰安婦徴収の命令。強制連行については不明。

やがて洛陽作戦が始まった。月余で洛陽が陥落してホッとしていると、数日後、師団の後方参謀が直接呼びに来たので、何事ならんと出頭すると、

「宮谷少尉は、至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」

という命令である。もうこれは、メチャクチャである。大学を出て、なんの因果でピー屋造りをさせられるのか、その上女衒まがいの女集めまでさせらるのである。何とも情けない思いであったが、命令である。同行していた大工上がりの軍属に慰安所造りの指示を与え、塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴いたのである。どうもこの作命は、後で聞いたところによると、包頭での慰安所造りの成功が効いていたそうである。ともかく、洛陽をトラックでグルグル回り、私のカンも良かったのか、二、三軒で十数人の女集めに成功して、部隊に連れてくることができたのである。

(新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会編『追憶』上巻 宮谷重雄「わが戦記 恥さらし」)

山木さんのエントリー、『【反論】従軍慰安婦問題、「軍が調達した事実はない」石原知事』より

同じ証言を林博史さんが引用している。

元日本兵の証言に見る日本軍慰安婦

洛陽陥落という件から、年月を推定。以下より。

○1号作戦…

 1号作戦は大陸打通作戦と称し、予想される B29の配備と本土空襲の実施を憂慮して、支那派遣軍(人員51万人)を動員する計画であった。44年4月京漢作戦が開始され、5月洛陽を占領した。5月湘桂(湖南、広西)作戦を開始し、激戦により、衡陽、桂林、柳州などを年末までに占領するが、敵主力を捕捉殲滅は出来なかった。中国軍の巻き返しにより、雲南拉孟での金光大隊の玉砕後、45年1月ビルマルートは再開する。

「日中戦争 : 和平か戦線拡大か」

昭和17年8月、関東軍第三軍司令官となり延吉へ。

19年2月、第十二軍司令官となった。その就任直後、一号作戦(いわゆる大陸打通作戦)が発動。その第一期作戦たる京漢作戦に第十二軍が使われることとなった。 小玉鐡太郎第六鉄道聯隊長の手により修復された黄河大鉄橋を、4月14日、先陣の第六十二師団本郷義夫中将)が通過。20日には覇王城に一斉攻撃を懸けこれを落とした。さらに第六十二、第一一〇師団(林芳太郎中将)は並列して敵の第八十五、七十八軍団を南方へ追撃。一方第三十七師団長野祐一郎中将)及び独立混成第七旅団(多賀哲四郎少将)は西進。 吉藤喜代志大佐の挺進隊(第二二七聯隊)が鄭州を占領、 鎭目武治大佐の蜜県挺進隊(第二二五聯隊)が敵第二十三師を撃滅、蜜県を占領した。かくして第三十七師団、第六十二師団、独混第七旅団及び第三戦車師団(山路秀男中将)の一部は許昌へ向かった。湯恩伯は許昌の守将呂公良に、数個師の救援に送ったことを伝え死守を命じた。この命令を傍受した我軍は、第三十七師団を許昌城に、第六十二師団を敵援軍に振向けた。第三十七師団は第五航空軍(下山琢磨中将)の支援を受けて5月1日には早くも許昌を落とした。一方第六十二師団も、来援に来た第十二軍、第二十九軍を痛撃。許昌の戦闘は我軍の完勝裡に終わった。軍は更に西進し湯恩伯直率の第十二軍に大打撃を加えた。 5月中旬、北支那方面軍が洛陽攻略を考えている事を偵知した内山は、洛陽占領より野戦軍撃滅が先決と考え、黄河の支流に沿って敗走中の敵軍を追撃するため、岡村文人大佐の盧氏挺進隊(第二二六聯隊)を進発させた。盧氏は多量の軍需品が集積された湯恩伯の隠密基地であったが、挺進隊は長躯この地を攻略した。

方面軍は、第十二軍の京漢打通作戦が思いの他順調に進んだことで、遂に洛陽攻略を決定した。しかし野戦軍撃滅を第一に考える内山にも配慮して、新たに第六十三師団(野副昌徳中将)に独立歩兵第九旅団及び野戦補充隊を加えた「菊兵団」を編成し、5月19日、洛陽城を攻撃させた。しかし一昼夜攻めたが落とせそうもないので、菊兵団を第十二軍隷下に正式に編入し、内山に洛陽城攻撃を下令した。内山は、菊兵団の他に第一一〇師団、第三戦車師団及び第四騎兵旅団(藤田進少将)を投入、23日から攻撃を開始し、25日にはこの古都を完全に制圧した。こうして京漢作戦は成功裡に完結、日本軍の久々の戦勝であって、天皇陛下も勅語を下された。尚この作戦中、岡村寧次大将 の「焼くな、殺すな、犯すな」の三悪追放命令が伝達され、これを将兵がよく守ったため、第一一〇師団 などは戦後、帰国第一船を与えられた*1

内山英太郎

*1:引用者注:守らなかった将兵が多かったってことだ