日本人捕虜尋問報告書第49号

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日本人捕虜尋問報告書第49号

英文報告書、Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49.のこと。以下、和訳のみを紹介する。詳しい解説はこちらのキーワド解説参照されたい。

ソース

ネット版日本語訳(1)

http://www.geocities.com/theaterapo689/

ネット版日本語訳(2)(吉見資料集)

http://members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html

和訳

日本人捕虜尋問報告書第49号

前書き

このレポートはビルマ、ミーチーナ陥落後1944年8月10日前後の、掃討作戦により捕らえられた、20人の韓国人「慰安婦」と、2人の日本民間人の取調べから得られた情報である。

このレポートは日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする。

「慰安婦」とは、売春婦にすぎない。もしくは「専門的前線基地追随者」、軍人の利益の為日本陸軍に付属する。「慰安婦」と言う言葉は日本人特有のものである。他のレポートでは「慰安婦」とは日本陸軍が戦う為に不可欠なものであり、どこでも見受けられると記されている。このレポートではしかし、日本人に募集され、ビルマにて彼らの陸軍に付属していた韓国人「慰安婦」のみを扱うものである。日本人は1942年、ビルマに703名のこれらの女性(*1)を送ったと報告している。

*1(原文ではgilrs)


慰安婦の募集:

1942年5月上旬、東南アジアの新しく勝ち得た属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を募集する目的により、日本人代理業者は韓国に到着した。この「奉仕」の本質ははっきり示されず、病院の負傷患者の訪問に類した仕事、包帯を巻いたり、軍人を明るくする事に関連する仕事と受け取られた。

この代理業者が動機として利用したものは大金、家族の借金の返済、簡単な仕事、新天地シンガポールで新しい人生を送れるなどである。この虚偽の説明に基づいて、多くの女性が海外勤務に志願し、何百円かの前金を受けとった。

これらの大部分の女性は無知で、教養が無いものだった、だが少数のものは以前から古代からの仕事(売春)と関連があった者も居た。彼女らはサインした契約書により、家族の借金返済の為受けとった前金の金額により、6ヶ月から1年間、軍規と「慰安所経営者(*2)」に束縛された。

おおよそ、800名の女性がこのように集められ、彼女らは1942年、8月20日前後ラングーンに彼女らの慰安所経営者と降り立った。彼女らは8人から22人のグループで到着した。ここから彼女らはビルマの各地、大抵は近くに日本陸軍基地があるまあまあ大きな町へに分散していった。最終的に4つのグループがミーチーナにたどり着いた。彼らはキョウエイ、キンスイ、バクシンロ、モモヤマであった。キョウエイの一家は「マルヤマクラブ」と呼ばれていた。が、彼女らがミーチーナに到着した後、ミーチーナ駐屯地の司令官である丸山大佐と同じ名前の為変更された。

*2(原文ではhouse master)


慰安婦の特徴:

取調べでは、平均的韓国人「慰安婦」は約25歳、無教養、大人気なく、利己的である。彼女たちは白人の基準からも、日本人の基準からも魅力的ではない。彼女たちは自己中心的な傾向があり、自分の事を話すのが好きである。彼女たちの知らない人の前での態度は静かで、控えめだが、彼女たちは「男を手玉に取る方法を知っている」。彼女は自分の「専門職」が好きでないと申し立て、その仕事や、家族の事に付いて話したがらない。ミーチーナとレドでの米国軍人から捕虜として受けた扱いにより、彼女たちは米国人の方が日本軍人よりも情け深いと感じているようだ。彼女たちは中国とインドの部隊を恐れている。


住居と仕事の状況:

ミーチーナで彼女らは大抵大きな2階建ての建物を宿舎として与えられ(大抵は校舎)、各女性に個別の部屋が割り当てられ、そこで彼女たちは寝起きし、睡眠をとり、業務に勤めた。

ミーチーナでは彼女らの食事は、日本陸軍からの配給が無い為、慰安所経営者によって準備されたものを、彼女たちは買っていた。彼女らはビルマの他の所と比べて高級地近くに住んでいた。こういった事は彼らがビルマ生活2年目に特にあたることだ。彼らは贅沢に暮らした、彼女らの食事や物質は大量には配給されなかったが、彼女らが望む品物を買えるだけの十分なお金は持っていた。彼女らは服、靴、タバコ、そして化粧品を買え、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人から、多くのプレゼントを貰っていた。

ビルマに留まっている間は将兵と共に、運動会に参加したり、ピクニックに出席したり、娯楽、社交ディナー等で彼女らは楽しんだ。彼女らは蓄音機も持ち、町の中では買い物に行くことも許された。


慰安所料金表:

彼女らの業務状態は陸軍規定の下にあり、慰安所の利用が頻繁な地域では規則は厳格に実施された。陸軍はそうした地域では金額、優先順位、各種の部隊が活動してる地域での利用計画が必要だと考えた。取調べによると、平均的な利用規則は以下の通り。

1 兵士      10AM~5PM   1.50円    20~30分

2 下士官(NGO) 5PM~9PM    3.00円   30~40分

3 将校      9PM~12PM   5.00円   30~40分

これらは中央ビルマでの平均金額である。将校は12円で一晩泊まる事が許された。ミーチーナでは丸山大佐が平均金額のほぼ半分の金額にさせた。


割り当て表:

兵士はしばしば建物内の混雑に不満を漏らした。陸軍は長居をする事に対し非常に厳しかった為、多くの状況で彼らは奉仕を受けないまま帰らなければならなかった。この問題を解決する為に陸軍は特定の曜日を特定の部隊に割り当てた。大抵1日に付き、部隊から2人が兵士を確認する為、建物に駐在した。秩序維持を為に、憲兵も見回りを勤めた。

 下記に記したものがメイミョウに滞在していた間、第18師団の各種部隊が慰安所「キョウエイ」で使用された割り当てである。

日曜    18師団、司令部所属

月曜    機甲部隊

火曜    工兵

水曜    休日、毎週の健康診断

木曜    衛生兵

金曜    山岳砲兵部隊

土曜    輸送部隊

将校は週7日来る事が許されていた。彼女らはこの日程でも過密極まりなく、その為、全ての客に構っていられないと文句を言い、それ故多くの兵隊に悪感情をもたらした。

兵士は建物を訪れ、支払いをし、左側に順番、右側に名前の書かれた約5センチ四方のボール紙のチケットを受け取る。「彼の順番が来た時」に各々の兵士の身分、階級が明らかにされる。彼女らは客を拒否する特権を与えられており、兵士がひどく酔っていた時等に、頻繁に行使された。


給料と居住状況:

「慰安所経営者」は彼女達が契約した時の債務金額によって、彼女らの稼ぎの50~60%を受け取ることにしていた。この結果、月平均で女性は1500円の稼ぎをあげ、彼女は750円を「経営者」に返済する事になる。多くの「経営者」は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を困難なものにした。

 1943年後半、陸軍は債務を返済した女性へ帰省を命令し、何人かの女性は、韓国へと帰国した。

 この取調べでは彼女らの健康状態も良い事を示している。彼女らはあらゆる種類の避妊用具を十分に支給され、しばしば、兵士自身も陸軍から支給された物を持って来る事があった。彼女らは衛生の問題において客と自分の世話が出来る様、良く訓練されていた。専任の日本軍医が週に1回訪れ、病気が見付かった女性は皆治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。この同じ手順が陸軍内部でも遂行された。が、興味深い事には兵士は彼が入院期間の間も給料を失う事は無かった。


重要な日本人指揮官:

取調べから、彼女らと将兵との間柄に置いては、二つの人物が重要な人間としてあがった。それらは、ミーチーナ駐屯地の司令官である、あの丸山大佐(*3)と援軍を率いて来た水上少将である。二人は対照的で、前者は堅物で利己的で冷淡で、部下への配慮も無い。後者は善良、親切な男で、立派な軍人であり、彼の元働く部下へも最大の配慮をする。

丸山大佐は彼女らの常連であり、水上少将が訪れた事は聞かれた事が無い。ミーチーナの陥落とともに、丸山大佐は逃亡したと思われ、一方、水上少将は、部下を撤退させることができなかった故に自決した。

*3(丸山大佐の特定の慰安婦への厚遇と、他の慰安婦のそれへの反発が同時に製作された報告書に記載されている)


利用兵士の状況:

普通の日本軍人は慰安所で見られる事は、ばつの悪い事のようで、ある女性の言う所によると、「満員で列に並んで自分の順番を待つのにも恥ずかしがりがち」だった。しかしながら、極めて多くの結婚の申し込みがあり、ある場合に置いては実際に結婚した。

全ての女性が、彼女らの所へ来た将兵のうち翌日前線へ向かう兵士と、酔った者が最悪であると言っている。しかし同時に、酷く酔った日本人兵士であっても、彼女らと機密や軍隊の情勢を話題にする者がない事も述べている。女性の方から軍隊の情勢の会話を始めても、将校又は下士官兵は話さず、むしろ「そのような女性らしくない話題について話さないように説教された。酔っ払った丸山大佐でさえ決してそのような事について話す事は無かった。」

兵士はよく実家からの雑誌や、手紙や、新聞を受け取ることをいかに楽しみにしているか喋った。彼らはまた、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯ブラシ、小さな人形、口紅や下駄であふれた慰安袋を受け取ったともいう。口紅と下駄は女性用の品物であり、彼女達は何故実家の人達がそのような物を送るのか理解出来なかったが、送り主の女性が自分自身を思い出して貰いたかったのだろうと、と思ったという。

 

軍事情勢:

ミーチーナと臨時滑走路への第一攻撃で、町の防衛に200名を残し、200名の日本人が死亡した。弾薬は極わずか。

敵の臨時滑走路西への攻撃の前、ミーチーナ周辺に駐屯していた兵士は北部と西部で攻撃していた味方の波乱の為、他の場所に派遣された。約400名が取り残され、第144連隊から大きく孤立した。どうやら丸山大佐の町が攻撃されるとは思わなかったようである。後に、第56師団のミズカミ少尉が2ヶ連隊以上の増援を率いてきたが、それでも町を死守する事は出来なかった。

味方の爆撃が強烈で恐ろしかった事は女性達みなの総意で、そのおかげで、彼女達は塹壕で最後の日の殆どを過ごした。1、2人はそこでも仕事を営んだ。

慰安ハウスは爆撃を受け、何人かの女性は負傷し死亡した。


撤退と捕獲:

「慰安婦」の撤退と最終捕獲の話はやや曖昧で彼らの心も混乱しており、様々なレポートによると、下記のような事が起こったようだ。

7月31日の夜、3箇所の「慰安婦達」(バクシンロがキンスイに合流)、家族連れ、お手伝い達ら63人の集団が、イラワジ川を小さなボートで渡りはじめた。彼らは結局、ウェインマウの近くに上陸し、8月4日まで留まったがウェインマウには1度もよらなかった。

そこから8月7日に敵との小衝突により仲間と別れるまで、彼らは兵士の集団の進路に付いていった。3時間の合間を置き、彼女らは兵士達の後を付いて行くよう命令されたが、結局兵士や渡った手段の痕跡を見出せないまま川の堤防に佇む結果となった。

彼らはイギリス将校率いる兵士に8月10日カアヒンにて捕まるまで、近くの家に留まった。彼らはミーチーナに連行され、そこからこのレポートの元となった、取調べが行われたレドゥー防御柵へと移された。


要望:

彼女達誰一人として、ミーチーナで使用された米軍の「拡声器」を聞いたものは居なかったが、何人かは「ラジオ放送」に付いて兵士達が口に出すのを小耳に挟んでいる。

彼女らは陸軍が彼女らの捕獲の事を知れば、他の女性達の命が危険に晒されるので、「慰安婦」の捕獲の事を伝えるチラシを使用しないよう求めた。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるビラを使う朝鮮での計画は名案であろうと、確かに同意もしたのである。


付録A:

 以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

    名  年齢   住 所

 1 「S」 21歳 慶尚南道晋州

 2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕

 3 「P」 26歳 慶尚南道晋州

 4 「C」 21歳 慶尚北道大邱

 5 「C」 27歳 慶尚南道晋州

 6 「K」 25歳 慶尚北道大邱

 7 「K」 19歳 慶尚北道大邱

 8 「K」 25歳 慶尚南道釜山

 9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク

 10 「K」 22歳 慶尚南道大邱

 11 「K」 26歳 慶尚南道晋州

 12 「P」 27歳 慶尚南道晋州

 13 「C」 21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕

 14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕

 15 「Y」 31歳 平安南道平壌

 16 「O」 20歳 平安南道平壌

 17 「K」 20歳 京畿道京城

 18 「H」 21歳 京畿道京城

 19 「O」 20歳 慶尚北道大邱

 20 「K」 21歳 全羅南道光州

日本人民間人

 1  KT 38歳 京畿道京城

 2  KE 41歳 京畿道京城