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1noharranoharra   従軍慰安婦だったあなたへ

従軍慰安婦だったあなたへ

                          井上 俊夫

ああ、私は、正視できない。はるばる朝鮮からやってきて、「従軍慰安婦問題を究明する会」という、二百人余の集会の壇上に、元・従軍慰安婦として、生き証人として、立ったあなたを。

あなたは純白のチマ・チョゴリに身を固め、背筋をしゃんと伸ばし、まだ艶のある声をいっぱい張り上げ、私には解らない早口の朝鮮語で、ここを先途とまくしたてている。けれども既に七十の坂を越えたというあなたの髪は、もはや半白となり、小作りながら昔はさこそと思われるその顔には、無惨にも深い皺が無数に刻み込まれている。

どうしてあなたは、こんなに老いさらばえてしまったのか。どうしてあなたは、昔のままの姿で、日本へやって来ることができなかったのか。

人間誰しも年をとり、老いていかねばならない。そんなことは百も承知していながら、元・従軍慰安婦だったというあなたが、老残の身を公衆の面前に晒しているのを、会場の片隅からひそかに見遣りながら、元・日本軍兵士だった私は、いたたまれない気持ちにされてしまう。

あなたが老いさらばえてしまったように、私も老いさらばえてしまったのか。あなたの老醜は、そのまま私の老醜なのか。あなたは私の老醜を容赦なく映し出す鏡。その鏡がはるばる海を渡ってやってきたのだ。


ああ、あまり上手でない通訳を介して語りかけてくるあなたの話を聞くのは、実にまどろこしく、しかも耐え難い。あなたの話の細部がよく伝えられず、概略だけ聞かされているようなのだが、それだけに余計に私にはどぎつく聞こえる。あなたの話は、毒矢のように私の心に真っ直ぐ突き剌さってくる。

あなたは十八の娘盛りに、女子挺身隊と称するものに徴用され、両親に別れを告げるいとまもなく、トラックと貨物列車に乗せられて、中国大陸に連行され、むりやり日本軍将兵慰安婦にされたという。処女だったあなたにまず将校が襲いかかってきた。あなたが必死に抵抗すると、相手は軍刀を抜いて脅かし、ついにレイプされてしまった。こうした将校の「味見」がすむと、あなたは慰安所に「払い下げ」られ、三年もの間、無数の日本兵の相手をさせられた。多いときは一日に何十人もの男と寝なければならなかった。この間、あなたの同僚の多くが、性病結核に罹ったり、無謀な堕胎を強いられたりして、次々と命を落としていった。

やがて日本の敗戦となったが、日本軍はあなた方を置き去りにしてどこかへ行ってしまったので、あなたは命からがら祖国へ逃げ帰らねばならなかった。あなたの国は日本の植民地支配から解放の喜びに沸き立っていたが、元・従軍慰安婦に対する同胞の眼は意外に冷たく、あなたはひたすら前歴を隠して生きねばならなかった。その後、あなたの国では同胞相戦う朝鮮戦争と、分断国家の成立という大いなる悲劇に見舞われるが、あなたはそうした国の運命をか細い女の身で必死に受けとめながら、辛うじて今日まで生きながらえて来たのだった。

無論、従軍慰安婦にされたとたん子供を産めない体になってしまっていたし、結婚してくれる男もないまま終始天涯孤独の身をかこってきたという。


そしてあなたは、一段と激しい口調で訴える。

「わたしはほんとはこんな会合に顔を出して、生き恥を晒したくなかったのです。

でもこのまま黙って死んでしまったら、わたしたち従軍慰安婦の問題は、永久に闇の中に葬られてしまいますし、無念の涙を飲んで異郷で斃れてしまった同僚の魂も浮かばれませんので、一大決心をし、恥を忍んで、日本へやってきたのです。

わたしたちの青春も人生も、日本人によって滅茶苦茶にされてしまいました。わたしはあなた方日本人にお尋ねしたい。あなた方は自分の可愛い嬢や妻に、わたしたち従軍慰安婦のような真似がさせられますか。日本の政府や日本人に、少しでも良心というものがあるのなら、私たちの訴えに耳を傾けて下さい。責任をとってください。そして二度と再びわたしたちのようなひどい目にあう者が出ないようにしてください」


ああ、時には両手を大きく広げ、時には右手の拳を高く突き上げ、時には声をつまらせ、時にはハンカチで両眼に溢れる涙をぬぐいながら語りかけてくるあなたの話に、そしてあなたの後に続いて壇上に立った、もう一人のやはり古希を過ぎた元・従軍慰安婦の話に、よもや嘘いつわりはあるまい。

あなた方の話はおそらく、朝鮮半島の村々や学校などから、日本人の手によって強制的に連行され、欺かれて、中国大陸はじめアジア太平洋地域の各地に散在する日本軍相手の慰安婦にさせられ、挙げ句の果てに紙屑のように棄てられた、何万とも数しれぬ乙女や人妻のむごたらしい運命とその心情と怨念とを、代表的に物語ったものと見て差し支えないだろう。


ああ、五十年のその昔、日中戦争のさなかに、私が武昌や南京の青楼で見かけたあなた方は、不遜なまでに若かった。三日月型の黛はどこまでも青く、しどけなく開いた胸からは、眩しくももの悲しい曲線がこぼれおち、後れ毛をかきあげる華奢な指先には、切ないノスタルジアの蝶々が舞っていた。

あなた方がどうして朝鮮半島から、はるばる日中戦争の現場へやってきて、兵隊相手に春をひさぐようになったのか、当時の私たちは知る由もなかった。私たち兵士があなた方に支払うなけなしの軍票を、後生大事に貯め込んでいるあなた方の姿を見て、朝鮮の貧しい家の娘たちが、健気にも親のため兄弟のために、はるばる出稼ぎに来ているぐらいに思っていた。

あなた方はまた私たちに、決して身の上話をしようとはしなかった。いや、しようとしてもカタコトの日本語では、どうにもならなかったのかもしれない。


私たち兵士は命がけの作戦を終えて、辛くも後方基地にたどり着けた時、小銃や弾丸や手榴弾、その他数々の重い装具もなにもかもかなぐり捨て、貰ったばかりの軍票と外出許可証を握りしめて、あなた方がたむろする館にまっしぐらに駆けつけ、あなた方の白い胸に顔を埋めるのだった。

つい昨日まで、果てしなく続く曠野を、凶暴な意志に貫かれた一団となって突き進み、田畑を無造作に踏みにじり、村落に乗り込み、村落を通過しては、米や野菜や鶏や酒をかすめとってきた手で、逃げまどう敵の隊列を機関銃で掃射してきた手で、目前の敵兵を銃剣で突き殺してきた手で、敵弾に斃れた戦友の屍を野末に葬ってきた手で、私たちはがむしゃらに、あなた方を抱きしめた。

たとえ限られた短い時間にせよ、あなた方の側近くにいて、あなた方の髪の匂いを嗅ぎ、あなた方の胸の上に手をおき、あなた方の顔をみつめ、あなた方の囁きを聞き、あなた方の小耳をいじくり、あなた方の唇を盗んでいる時だけ、私たち兵士は幸せだった。

もしもあなた方が戦場にいなかったら、私たち兵士はいったいなにを望みに生きていけただろう。青春の夢も望みも、人間性すら奪われた軍隊生活の中では、あなた方に逢えることが、私たちのただ一つの生き甲斐だった。ただ一つの愉楽だったのだ。


戦争が終わって、一年あまりの捕虜生活を送った後、私たち支那派遣軍の兵士は、戦友の遺骨を胸に抱いて内地へ帰還してきた。東シナ海を越えてきた復員船のデッキの上から、数年ぶりで九州の緑の島と藁葺きの家と、風に翻る赤ちゃんのお襁褓を見たとき、私たちは思わず手をとりあって男泣きに泣いた。ああ、生きて祖国へ帰れたのだ、あの地獄のような戦場から脱出できたのだ。生きているってことは、なんと素晴らしいことだろう。

やがて私たちは事も無げに軍服や軍靴を脱ぎ捨て、とっておきの背広に着替えると、元の職場に復帰したり、新たに仕事を求めたりして、伺食わぬ顔で市民社会に紛れ込んでいった。そして好きな女をみつけては、一緒になろうと囁いた。その時、私たちは戦場で何人もの人間を殺してきたことも、慰安婦を抱いてきたことも、めったに口にしなかった。

敗戦直後の日本はいたるところが焼け野原となり、食料や物資が極度に不足し、ただ栄養のいいアメリカ兵だけが、ジープで街を我が物顔に走り回っていた。だが、どんなに暮らしが惨めでも、とにかく平和で、もはや兵隊にとられたり、戦場に駆り出されたりする恐れが全然ないことほど、有り難いことはなかった。

私は二度と再び起床ラッパが鳴らない朝を迎え、非常呼集もかからず、敵襲もない夜を送れることを、どんなに嬉しく思ったことか。私が『もう奴隷兵士ではない』という生まれて初めての詩を書いたのもこの頃だった。


それから日本では、二十年も三十年も、いや半世紀近くも、ずうっと平和が続いた。明治維新このかた近代国家として歩み始めて以来、前代未聞の長い平和が続いた。

こんなに長く平和が続いてもいいのかと怪しみたいほど、平和が続いた。お隣の朝鮮ベトナムではまたぞろ戦争が起き、多くの人が無惨な死を遂げているというのに、日本だけが平和だった。申し訳ないはど平和だった。

この平和な時代を絶好のチャンスにして、日本はすばやく復興をやりとげ、いつしか経済大国といわれるまでに発展してきた。

私たち元・日本軍兵士も、いっかどの企業戦士として無我夢中で働いているうちいつの間にか停年となり、とうとう年に不足はない身にまでなってしまった。


ああ、戦後四十八年。この間に私たちは、人並みに妻をめとり、子を成し、孫の顔まで見ることができた。そして私たち従軍体験者は、二十年ほど前から、所属した連隊あるいは中隊ごとに、戦友会というのをつくり、一年に一、二度集まっては、往年の戦場生活を偲んできた。

かつて中国大陸の戦場で、飛び交う敵弾の下を危うくもくぐり抜け、厳しい戦場生活にもへこたれなかった勇士たちも、今はどこからともなく飛んできては、必殺の命中率を誇る「無情の風」という名の弾丸に、次々と倒されていく。戦友会が開かれる度にメンバーの数が減っていくのは、心細い限りであり、この調子では、最後まで生き残って戦友会の「終戦処理」をするのは、いったい誰だろうと、互いに顔を見合わせている始末だ。


私たち元・日本軍兵士の話など、今時の若い人はまともに耳を傾けてくれない。戦争や軍隊の話など、全然面白くない、聞きたくない、関係ないと、若い世代は言い切る。だから私たちは戦友会に集いあって、懐旧談に耽るしか仕方がないのだ。ここなら誰はばかることなく戦争の話が出来る。大っぴらに従軍の苦労話が出来る。酒に酔って軍歌を高唱しても、誰にも咎められる恐れがないのだ。その昔、私たち元・日本軍兵士が、中国大陸体験したあんなにおぞましくも恐ろしかった戦場生活の記憶も、半世紀に近い歳月を経るうち、次第に風化して、なぜか懐かしいもののような気さえしてくる昨今である。

まして私たちが戦場で出逢った、若く美しくやさしかった従軍慰安婦の思い出は、日に日に甘美な夢となって、私たちの胸の片隅でひっそりと生き続けていた。

ところが、元・従軍慰安婦の突然の出現と告発は、私たち元・日水軍兵士が長年抱き続けてきた、そのような一方的で身勝手な夢を完膚無きまでに打ち砕いてしまったのだ。

最近の戦友会で、従軍慰安婦の問題が話題にのぼった時、軍隊時代は中隊長だった男は、

 「なんだチョウセン・ピー朝鮮人慰安婦を卑しめていう言葉)の癖して、今頃のこのこと幽霊みたいに出てきやがって、日本政府謝罪せよとか、補償せよとかぬかしている。日本は金持ちだから、なにかイチャモンをつけたり裁判沙汰にしさえすれば、なにがしかの銭になると踏んでいるのだろう。あいつらがピー慰安婦)になったのは、金儲けをしたいためで、自ら志願した結果なのだ。あいつらが兵隊からまきあげた金を、せっせと故郷へ送金していたのを、俺は何度も見て知っている。日本は決してあの連中を強制連行などしていない。あいつらはみんな嘘吐きだ」

と、なにを根拠にしてか、いち早く論断してみせた。

復員後はさる都市銀行に勤め、定年退職する時は支店長にまで成り上がっていたこの男は、熱心な皇室尊崇者で、いまだに日中戦争は決して日本の侵略ではなかったと言い張る反面、朝鮮人に対してはどす黒い血のような差別意識を、依然として体内に流し続けているのだ。戦友会にはこうした連中が少なくないのである。


もとより私はこのような男の主張に与することは出来ない。むしろ朝鮮人に対する濃厚な差別意識が渦巻くこの日本へ敢然とやってきて、民族衣装を誇らしげにつけた老いの身で、声涙共に訴えてやまない、元・従軍慰安婦だったあなた方の話を信ずる。

にもかかわらず、日本軍の野蛮な行為を告発し、日本人に対する呪狙がストレートに伝わってくるだけの、あなた方の話は聞くに耐えない。耳を覆いたくなる。

あなた方を日本に招き、この集会を主催した団体の意向や、下手な通訳の仕方のせいもあると思うのだが、あなた方のそのような細部抜きの性急な訴え方だと、往年の日本軍兵士と従軍慰安婦の間には、ひとかけらの人間らしい共感も友情も、恋愛もロマンスもなかったことになってしまうではないか。私たち元・日本軍兵士はみんな浅ましい獣だったということになってしまうではないか。

だからといって、私はあなた方の話をどうして非難できよう。否定できよう。どうして偽りだなどと断定できよう。


ああ、あなた方の手厳しい告発、あなた方の怨嗟に満ちた声は、純白のチマ・チョゴリに包まれた、老いた肉体の奥深い所から発せられていることは、もはや疑うべくもない。

私たち元・日本軍兵士は敗戦と同時に、造作もなく制服を脱ぎ捨てることが出来たが、日本人が無理矢理あなた方に着せた「従軍慰安婦という名の制服」は、あなた方がどんなにあがいてももがいても生涯それを脱ぐことができず、これからもそれを着たままで死んでいかねばならない、世にも恐ろしいユニホームだったのだ。

なぜなら、あなた方が着せられた制服は、あなた方の肉体そのもので作られており、あなた方の肉体そのものであったからだ。

ああ、私はあなた方のむごい運命と、日本人が犯したあまりにも大きな罪に戦慄し、暗澹とする。そしてひそかに涙せずにはいられない。


ああ、私はもう一度、改めて、会場にいるあなた方二人の顔を見る。深い皺が刻まれたあなた方、元・従軍慰安婦の顔をつくづくと見る。二度と再び見ることがないであろう、あなた方の顔をしみじみと見る。万感の想いを込めてあなた方の顔を見詰める。

そして私は卑怯にも、あなた方になんの挨拶もせずに、会場からすごすごと、人混みにまみれた老い耄れ犬のように立ち去っていく。

さようなら、黄さん

さようなら、李さん。

ああ、昔は、あんなに若く麗しく、やさしかった従軍慰安婦たちよ。

はるばる朝鮮半島からさまよい出てきて、突如私たちの前に姿を現した、生きながらの卒塔婆小町よ。

わが哀憐のチマ・チョゴリ姿の卒塔婆小町よ。

さようなら、さようなら。

従軍慰安婦だったあなたへ

従軍慰安婦だったあなたへ

返信2018/03/08 09:54:54

2noharranoharra   1  震災風俗嬢

 さて、そんなことを考えていて思い出したのは東日本大震災から5年目に出版された小野一光著

震災風俗嬢』(16年、太田出版)だ。

 この本によると、「3・11」からわずか1週間後に営業を再開させた風俗店があったのだという。もちろん、被災地での話だ。それ以上に驚かされるのが、震災津波原発事故で大混乱の上、夥しい数の命が失われた地で、風俗店はいつもより大忙しだったという事実である。


 店によっては、いつもの倍近い客が押し寄せたのだという。客はもちろん被災者。家を流されたり、仕事を失ったり、中には家族を亡くした人もいたという。

「えっ、そんな状況で風俗に?」(P.42)

 著者の小野氏が思わず口にすると、風俗嬢はこう答える。

「そんな場合じゃないことは、本人もわかっていたと思いますよ。ただ、その人は『どうしていいかわからない。人肌に触れないと正気でいられない』って話してました」(P.42)

 そう話した男性は30代後半。妻と子どもと両親が津波に流されたのだという。妻は土に埋もれ、歯型の鑑定でやっと本人だとわかったということだった。


 風俗店のオーナーは震災後、店の女性たちに「ああいうことがあったあとなんで、女の子にはただ“抜く”だけじゃなくて、癒しに専念してくださいって言ってんだよね」(P.45)と語る。

 女性たちは客に対して話を聞く、肩を揉む、髪を洗う、全身を洗うなど、性的サービスに限らず相手に求められることをやってきたと語る。

雨宮処凛

https://imidas.jp/girls/?article_id=l-60-067-18-03-g421

震災風俗嬢 [ 小野一光 ]

返信2018/03/08 09:18:47

3noharranoharra   2  「性的な聖性」を安価に供給するシステム

震災風俗嬢と「従軍慰安婦」の類似は明らかだ。

戦場で「従軍慰安婦」が必要であることは誰でも分かる、と力強く断言した橋下徹を思い出す。

戦場での長時間の戦い、殺される恐怖、人を殺すという体験そのような極限的緊張の持続のあとでは、特別の弛緩の時間が必要だ。

「人肌に触れないと正気でいられない」。戦場から日常に戻るのではなく、身体、皮膚、性的交渉、あえていえばそこに別の〈聖性〉への希求というものを人は求めるのかもしれない。


さて、そのような「性的な聖性」を安価に供給するシステムを国家は作り上げた。システムが作られることにより、性交は権利となり、それがなければ兵士は文句を言い、自力で「強姦所」を作り上げた例も多い。

国家の側から見れば、それは必須のものとして供給された。しかしそこに供給された女体の側からみればどうだろうか。

「性的な聖性」の供給とは、女体が一時的に〈菩薩〉となることであり、その存在を貶めることとは矛盾する。労働条件やファッションなどあらゆる手段でその存在は美化されなければならない。

日中戦争のさなかに、私が武昌や南京の青楼で見かけたあなた方は、不遜なまでに若かった。三日月型の黛はどこまでも青く、しどけなく開いた胸からは、眩しくももの悲しい曲線がこぼれおち、後れ毛をかきあげる華奢な指先には、切ないノスタルジアの蝶々が舞っていた。」と詩人は歌い上げた。

しかし実際はどうだったのか? 現実のそこにいた女性たちは、多くの場合何の美的要素もない小屋にただ横たわり、場合によっては「前の使用者」が残した精液がついたままの性器をただ供給しただけだった。「性的な聖性」の供給が幻想性に根拠を置くものである以上、それでもそこからなんらかの癒やしを得たものは居ただろう。

しかしそこに横たわった女体たちにとってはどうだったのか?


「あなたは慰安所に「払い下げ」られ、三年もの間、無数の日本兵の相手をさせられた。多いときは一日に何十人もの男と寝なければならなかった。この間、あなたの同僚の多くが、性病結核に罹ったり、無謀な堕胎を強いられたりして、次々と命を落としていった。やがて日本の敗戦となったが、日本軍はあなた方を置き去りにして」去った。

男たちが「あなた」との接触にどんな夢を重ねようと、そして一瞬は「あなた」自身がその夢を信じようとしたところで、夢は夢でしかなく、現実は過酷性労働の持続があるばかりである。

そしてその後、ボロボロになった身体と何重もの汚名の元に長い戦後を生き続けなければならなかった。


従軍慰安婦」に対する謝罪が、心からのものでなければならない理由がここにある。

慰安婦たちは、「性的な聖性」をくださった。わたしたちはそのことに大きな感謝とともに心からの謝罪を捧げつづけなければならない。

(野原燐)

返信2018/03/08 10:09:58