沖縄「集団自決」論争の陰に隠れて RSSフィード
 

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1ni0615ni0615   沖縄「集団自決」論争の陰に隠れて

写真は、米軍捕虜となった沖縄朝鮮人慰安婦(ただし場所は慶良間ではない)

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=upload&act=open&page=%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6&file=%E8%8C%B6%E5%B1%8B%E3%81%AE%E5%A8%98.jpg


今、教科書の「集団自決」の説明を巡って激しい論争が起きているのは、沖縄慶良間列島の渡嘉敷島座間味島でのことですが、この慶良間列島に朝鮮人軍夫や朝鮮人慰安婦がいた事実は陰に隠れています。


私が図書館で見つけた本は、

福地曠昭「オキナワ戦の女たち―朝鮮人慰安婦海風1992年8月 

です。


http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=upload&act=open&page=%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6&file=%E8%BB%8D%E5%A4%AB.jpg

(p149~157を引用)

慶良間列島での女たち


 大きな鯨が現われる渡嘉敷島は、米軍が最初に上陸した島*1で『集団自決』の島として知られる。

 昨年*2亡くなったぺ・ポンギさんがこの島に連行され、生き延びて本島に移り住んだ。水勤隊や慰安婦が犠牲となっているため、朝鮮の人たちによって慰霊祭が四度行われてきている。那覇空港から離着陸のとき西の海に見える島々が慶良間列島と呼ばれる島々だ。

 この列島には渡嘉敷と座間味の二つの村があり渡嘉敷島座間味島、阿嘉島、慶留間島があり他に多くの無人島が散在する美しい列島である。渡嘉敷はかつて、かつお節の生産場であったことや、徴兵検査合格率が全国一を誇る模範部落としても有名だった。昭和19年9月9日に兵員千人からなる鈴木部隊(少佐)が駐屯してきた。宿舎に民家が提供され、男も女も16歳から60歳まで働ける者すべてが陣地構築作業に動員された。

 9月20日には、赤松大尉を長とする「海上挺身隊」*3が渡嘉敷*4阿波連に駐屯した。特攻*5米軍が上陸するとき、米船団を集中攻撃するための任務をおびていた。

 昭和十九年の終り頃、鈴木部隊は陣地構築を完了したので、本島に移動している*6。その後に水上勤務隊と称する朝鮮人軍夫3百人が楠原中尉を隊長として来島した。朝鮮人慰安婦たちは昭和十九年の十月に連行されてきている。


 米軍は三月二十六日午前八時に水陸両用戦争*7をもって阿嘉島の南部海岸から上陸した。どういうわけか守備隊は出撃せず、自らの手で特攻艇を破壊した。

 赤松大尉は住民を保護するどころか集団自決を命令し、三月二十八日午後三時、三百二十九人の島の人たちは悲惨な自決を遂げたのである。

 日本軍朝鮮人軍夫をつかって住民から食糧を徴発させていた。生還した知念副官は、二人の朝鮮人軍夫を処刑したことを告白している。他にもスパイ容疑で朝鮮人軍夫を多数虐殺した。

 慰安婦たちのうち四名が敵弾に当って死亡し、白玉の塔に祀られている。渡嘉敷村で朝鮮人軍夫約二百人のうち、約百五十人が戦死した。


 同じかつお節の名産地だった座間味村では村民のうち百五十五人が悲惨な自決を遂げている。

 昭和十九年九月十日、梅沢少佐の率いる約一千人の陸軍部隊が座間味本島と、阿嘉島、慶留間島に駐屯してきた。陣地構築や弾薬倉庫の建設がはじまり、昭和20年の3月23日に米軍空襲によって部隊が全滅するほどの被害をうけ、住民23人の死者を出している。

 座間味村でも軍命によって村民283人が自決し、村役場三役手榴弾で自決した。

 阿嘉島では八月まで米軍に抵抗し、二百人が戦死し、座間味本島では三百人が戦死している、

 当時、阿嘉島には古賀少佐が率いる九百人の設営隊と特幹隊四百人が駐屯していた。

 これらの軍隊相手として、海に面した慰安所が設けられ、朝鮮人慰安婦が使われていたのである。


 私は「朝鮮人沖縄戦」を書くため兵庫県にいる梅沢少佐を訪ねたことがある。彼は失そうしたのでなく、米軍に投降していたのである。朝鮮人女性(慰安婦)が負傷していた彼を山中で、最後まで介抱していたことが分った。

 彼女は朝鮮出身者で、女学校を卒業したインテリ女性であったといわれる。


渡嘉敷島からの生還


 昭和十九年十一月朝鮮全羅南道の大田(たいでん)や水原(すいげん)出身の女たち28人が那覇に着いて後、渡嘉敷島座間味、阿嘉島の海上特攻艇のある四つの基地へ7人ずつ送られた。渡嘉敷島は、東側の渡嘉敷と西の阿波連の2カ所。座間味島村阿嘉島の七人は、翌二十年二月中旬、古賀基地設営隊と共に島を去ったが、その他の組は残った。

 この慶良間諸島に行った女たちの一人、渡嘉敷島でアキ子と呼ばれ、戦後『沖縄のハルモニ』と本に紹介された朴さんは当時二十九歳。彼女は三人兄弟の一人で、父は米や豆、粟を栽培するかたわら他人に使われ、兄たちもバラバラに働きに出た。朴さんも子守りをしていたが、十七歳で結婚、間もなく離婚。女街の近藤某にすすめられ応募した。「儲かった金をどうするか」などといわれ「心がヒヤヒヤ」しながら五人の仲間と釜山に行くと六十人もの大部隊となっていた。近藤某はいつの間にか姿を消し、門司に一泊したが、ここで四人の女が脱走した。鹿児島から焼跡の那覇昭和十九年十一月六日着、空家の病院に滞在した。十一月十三日、帳場の金子某の引率で渡嘉敷へ渡った。朴さんは渡嘉敷島に渡った時点でもなお「仕事せずに金儲けができる」と、喜んでかやぶき小屋に仮住いした。

 洋裁が習えるとさそわれた女もいた。


 慰安所が始まったのは、接収されたナカマジョーと呼ばれた仲村さん宅を九つの部屋に仕切ってからだった。(彼女は仲間ともで八人だったといっている。)慰安所は当初、山につくろうとしたがそれが変更されたのだ。その慰安所から近くの学校のところまで、一般兵が一列となって切符を手にしながら「未だか」と言って順が来るまで並んでいた。子供たちが、順を待っている兵隊をめずらしそうに見ていた、大人たちは「あれは食糧の配給をうけるために並んでいるんだ」と説明したそうである。

 一個大隊3百人を相手にするのでも夜もこき使われていた。一人で一日何十人もの相手をさせられたという。

 兵隊は日曜日に遊びに来て平日はこなかった。それでもときどきかくれて兵隊たちが遊びに現れていた。鈴木隊長がひんぱんに朴さんを訪ねてきたし、班長も来ていた。

 兵隊の中にはしつこいのがいて、何回も遊ぼうというのもいて女たちはいやな思いをした。言葉がわからず、だまされてきたのが悔しくて什様がなかった。下士官将校たちは切符でないので列をなさず、夜間自由に出入りしていた。

 慰安所は外から見られないように、出人口を狭くしていた。部屋は簡単な板で仕切られていた。

 渡嘉敷のカータガーラ(川)では女たちが下着類を洗濯しているのがみられた。この川は流れ川で、山からきれいな水が流れ、飲料水にも使川していた。

 阿波連では、女たちが部落内の小さなカヤ葺きの二軒に住んでいた。ここでも兵隊がずらりと一列に並んで切符を手にして、もようど配給でも受けるかのようにみえた。

 夜は将校がつきあっていた。慰安婦は色が白く美しかった。「ピー」と彼女らをひやかすと「天皇ひとつだよ。言うな」とはね返していた。

 昭和二十年三月二十三日、空襲があり、機銃掃射で渡嘉敷の炊事場で一人が死に、負傷した二人が軍の医務室に運ばれた。

 たまたま三十人ほどの青年団の団長で、皆と壕掘りをしていた玉城源二さんは、お父さんが貫通重症を負って、この医務室に人院していたので引きとりに行くと「兄さん、歩けないから連れて行って」と哀願された。しかし、米軍艦艇が上陸してくる瞬間であったので玉城さんはそれをふりきった。重症を負っていた父を連れていたので仕方がなかった。2~3日後、医務室へ行ってみるとその慰安婦の死体があった。一人の慰安婦は、一緒に阿波連の谷から渡嘉敷を経てカーラガシラに避難した。後日、そこから住民は恩納河原へ移動した。3月23日の空襲のあと、24日には恩納河原に避難し、25日集団自決したのである。米軍が上陸したのはそれから3日後だった。*8

 生き残った"朝鮮ピー"の一人は、戦後、渡嘉敷の米田さん宅にいたが、座間味から米軍に収容された。他の一人は、三中隊が白旗を挙げて降服したとき共に行動した。その後、彼女は一人息子のいる福岡へ生還したといわれる。


阿嘉島アガイミーヤの一番座


 慶良間諸島のうち慶留間島だけには慰安所がなかった。その北向いの阿嘉島の朝鮮人慰安婦たちは、アガイミーヤの一番座に住んでいた。

 この慰安婦たちは学校の近くにあった民家を借りて「南風荘」という慰安所で働いていた。基地設営隊が彼女らの相手で、未成年だった特幹の儀同保さんらは出入りを禁止されていた。

 彼女らは日本語を使い、部隊の炊事場に食事をとりにくるときよく会った。

 儀同さんは、奇しくもここへ連行された慰安婦たちが、昭和19年11月鹿児島から同船したマレー丸の六十人余りの朝鮮人慰安婦たちであることを知った。班長は中年であったが他の六人は二十代の若さであった。渡嘉敷もそうだが、夜は将校、昼は兵隊で切符を手にした時間割り当てであった。

 孤島の淋しさを彼女たちは朝鮮の歌でまぎらわし、それが島の人たちの同情を呼んでいた。「早く国へ帰りたい」と言っていた。

 儀同さんは屋嘉収容所で、敗戦後の8月24日の時点で、人の朝鮮ピーを目撃している。一方、朴さんたちは、3月23日以後は"営業中止"の状態となった。そこで責任者の金子某が日本軍へ行って、食べ物もないので一緒においてもらいたいと要望、長くいた壕から西山陳地に上って軍と協力した。食べ物は全然なかった。それでも炊事にいたのでよかったものの、朝鮮人軍夫たちは一番ひもじかったはずである。

 三月二十七日に上陸した米軍が、山に登ってきて米兵の声がすぐ近くに聞こえこわくなった。「若いし、どうせ死ぬなら死ね」という気持ちでもあった。死ぬことより、ひもじさをおさえることができなかった。飢えていても飛行機の機銃掃射や艦砲がこわかった。

 あるとき、テントの中でドラム缶に水を人れ、薪を燃やして隊長が風呂に入っていると、弾がドラム缶に命中し、幾つもの穴が開いたことがある。また、壕から出て入り口の便所に座っているとき、飛行機から投下された爆弾の破片がすぐそばにとんできて、生きた気持ちがしなかった。生きられると思わなかった。米軍機は木の上をすれすれに飛んで、陣地をめがけて攻撃をしていた。そんな危険な中を命令とはいえ命がけで薪を探したり、昼は米をついて炊事の任務に当たった。兵隊が斬り込みにいって負傷してくると、その服を洗濯するのに肩や腰が痛くなるほどであった。それでも日本の国のためだと思って一生懸命働いた。

 壕にいるとき、心の中で日本勝ってくださいとばかり考えていた。「勝ってほしい」と祈っていた、アメリカが勝ったら殺されると思っていた。それだけに敗戦はくやしかった。日本は戦争に負けて、米軍のまいた降伏勧告のビラに従って山をおりたが、彼女たちは自殺を考え、逃げようと思わなかった。

 負傷した以外の残る4人は米軍捕虜となったらしい。

*1:阿嘉島、慶留間島座間味島昭和20年3月26日で1日早く、渡嘉敷島は翌3月27日

*21991年のこと

*3:挺進隊が正しい

*4:正しくは渡嘉敷部落ではなくて渡嘉志久部落=トカシク

*5特攻艇の図はhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=upload&act=open&page=%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6&file=%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%AC.jpghttp://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/kaijotokkoutei.htm

*6:第9師団の台湾転出の影響で、というのが定説

*7:戦車

*8:日付の混乱が見られる

返信2008/02/06 18:42:37

2kmiurakmiura   掲示板 『沖縄戦についての質問と議論』

沖縄戦集団自決に関する話題が、教科書の記述をめぐってこの数ヶ月さかんになされています。

こちらでの議論もぜひ参照に。

沖縄戦についての質問と議論

http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=tree

ni0615さんがモデレートしているのかな。

返信2007/12/02 03:49:47

3dempaxdempax   『沖縄ノート』2007

このような報道とかさねあわすようにして新聞は,慶良間列島の渡嘉敷島沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男,どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し,投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり,そのような状況下に,「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が戦友(!)ともども,渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた. 僕が自分の肉体の奥深いところを,息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは,この旧守備隊長が,かつて≪おりがきたら,一度渡嘉敷島にわたりたい≫と語っていたという記事を思い出す時である.


おりがきたら,この壮年の日本人はいまこそ,おりがきたと判断したのだ,そしてかれは那覇空港に降りたったのであった. 僕は自分が,直接かれにインタビューする機会をもたない以上,この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようと思わない. むしろかれ個人は必要でない. それは,ひとりの一般的な壮年の日本人の,想像力の問題として把握し,その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめる課題であろう. その想像力のキッカケは言葉だ. すなわち,おりがきたら,という言葉である. 一九七〇年春*1,ひとりの男が,二十五年にわたるおりがきたら,という企画のつみかさねのうえにたって,いまこそ時はきた,と考えた. かれはどのような幻想に鼓舞されて沖縄にむかったのであるか. かれの幻想は,どのような,日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎に,はぐくまれたのであるか?


まず,人間が,その記憶をつねに新しく蘇生させつづけているのでなければ,いかにおぞましく恐しい記憶にしても,その具体的な実質の重さはしだいに軽減してゆく,ということに注意をむけるべきであろう. その人間が可能なかぎり早く完全に,厭うべき記憶を,肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである. かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず,自分自身にも嘘をつく. そのような恥を知らぬ嘘,自己瞞着が,いかに数多くの,いわゆる「沖縄戦記」のたぐいを満たしていることか.


たとえば米軍の包囲中で,軍隊も,またかれらに見棄てられた沖縄の民衆も,救助されがたく孤立している. そのような状況下で,武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を,無言で犯したあと,二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を,感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ,限界状況でのつかのまの愛などとみずから表現しているのである. かれはその二重にも三重にも卑劣な強姦,自分たちが見棄てたのみならず,敵にむけるはずであった武器をさかさまに持ちかえておこなった強姦を,はじめはかれ自身にごまかし,つづいて瞞着しやすい他人から,もっと疑り深い他人へと,にせの言葉によって歪曲しつつ語りかけることをくりかえしたのであったろう. そしてある日,かれはほかならぬ強姦が,自分をふくめていかなる者の眼にも,つかのまの愛に置きかえられたことを発見する. かれは,沖縄の現場から,被害者たる沖縄の婦人の声によって,いや,あれは強姦そのものだったのだと,つきつけられる糾弾の指を,その鈍い想像力において把握しない.


慶良間の集団自決の責任者も,そのような自己瞞着と他者への瞞着の試みを,たえずくりかえしてきたことであろう. 人間としてそれをつぐなうには,あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで,かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう. かれは,しだいに希薄化する記憶,歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する. つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために,過去の事実の改変に力をつくす. いや,それはそのようではなかったと,一九四五年の事実に立って反論する声は,実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での,市民的日常生活においてかれに届かない. 一九四五年の感情,倫理感に立とうとする声は,沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである. 誰もかれもが,一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで,かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう.


本土においてすでに,おりはきたのだ. かれは沖縄において,いつ,そのおりがくるかと虎視眈々,狙いをつけている. かれは沖縄に,それも渡嘉敷島に乗りこんで,一九四五年の事実を,かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する. その難関を突破してはじめて,かれの永年の企ては完結するのである. かれにむかって,いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった. それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ. おまえたち本土からの武装した守備隊は血を流すかわりに容易に投降し,そして戦争責任の追及の手が二十七度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き,善良な市民となったのだ,という声は,すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する. しかしそこまで幻想が進むとき,彼は二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に,甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと,渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては,およそ正視には耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう. このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない. おりがきたら,かれはそのような時を待ちうけ,そしていまこそ,そのおりがきたとみなしたのだ.


日本本土の政治家が,民衆が,沖縄とそこに住む人々をねじふせて,その異議申立ての声を押しつぶそうとしている. そのようなおりがきたのだ. ひとりの戦争犯罪者にもまた,かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること,事実に立った異議申立ての声をおしつぶすことがどうしてできぬだろう? あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは,若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく,穏やかな無抵抗の者だったではないか. とひとりの日本人が考えにいたる時,まさにわれわれは,一九四五年の渡嘉敷島で,どのような意識構造の日本人が,どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの,およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の,まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである.


罪をおかした人間の開きなおり,自己正当化,にせ被害者意識,それらのうえに,なお奇怪な恐怖をよびおこすものとして,およそ倫理的想像力に欠けた人間の,異様に倒錯した使命感がある. すでにその一節をひいたハンナ・アーレントアイヒマン裁判にかかわる書物は,次のようなアイヒマン自身の主張を収録していた.「ある昂揚感」とともにアイヒマンは語ったのである.

大江健三郎沖縄ノート』(岩波新書 旧青762 1970/09/21初刷 1976/07/30 7刷) p.209 p.208 - p.211 p.212 より転載. 原文傍点強調を太字に変更.






[附録Links]*2


沖縄戦の歴史歪曲を許さず,沖縄から平和教育をすすめる会 http://susumerukai.web.fc2.com/


大江健三郎岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会 http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/


大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会 http://okinawasen.blogspot.com/


大江健三郎「受任しない 戦争,記憶しつづける力を」(朝日新聞2005/08/16) http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/31/


ni0615の日記「土俵をまちがえた方々」http://d.hatena.ne.jp/ni0615/200712


従軍慰安婦の深層 http://d.hatena.ne.jp/abesinzou/200712


∵◇◆blog d'amo◆◇∵******mi sento come fossi 線香花火***** agosto 12, 2005 以降の一連の記事

http://amo-ya.blogspot.com/2005_08_01_archive.html

http://amo-ya.blogspot.com/2005_09_01_archive.html


文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』曽野綾子誤字誤読事件

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/200801

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/200712

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/200711


第34回司法制度改革審議会議事録 平成12年10月16日(月)=曽野綾子委員演説 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html


猫三昧 2008/01/25 http://d.hatena.ne.jp/kagiraizou/20080125/p3


教育ニュース&トピックス 2008/01/22 http://d.hatena.ne.jp/edu-news/20080122#p6


森住卓blog http://mphoto.sblo.jp/archives/200710-1.html


原爆戦争責任 2007/10 http://blog.goo.ne.jp/stanley10n/c/07dec11bb5f92971c581316a327372fe

"集団自決"62年目の証言~沖縄からの報告~NHKクローズアップ現代 2007年6月21日(木)放送

沖縄戦に"神話"はない」(太田良博)=曽野綾子『ある神話の背景』への批判




渡嘉敷村HP http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/

> 沖縄戦 http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/tokadata/de_1/d/de_1d_1.htm




2007年11月9日 大阪地裁 第3回証人尋問 記録

原告側)沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会 http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/37/

被告側)大江健三郎岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会 http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/news.html

沖縄タイムス連載「視座・沖縄ノート 大江健三郎陳述書」http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html#tokusyu




【新刊案内】

『世界 臨時増刊 2008/No.774 沖縄戦と「集団自決」- 何が起きたか,何を伝えるか』(岩波書店) http://www.iwanami.co.jp/sekai/2008/ex01/774.html

裁判[2007/11/19]傍聴記は目取間俊



宮城晴美『新版 母の遺したもの』(高文研 2008/01/30 ISBN:9784874983942)

沖縄戦の開戦直後,慶良間諸島に駐屯した軍の強制の下,肉親どうしで手をかけ,六百人をこえる住民が命を断った「集団自決」.


本書は,その「集団自決」から生き残った祖父母と母をもつ著者が,「母の手記」を原点に,30年をかけて聞き取った住民の証言で構成したノンフィクション!


ところが,その「母の手記」を証拠として,慶良間を基地とした海上特攻隊の元隊長らが,自分は「自決」命令は下していないとして,『沖縄ノート』の著者・大江健三郎氏と発行元の岩波書店を「名誉毀損」で告訴.


文部科学省もそれを受け,歴史教科書の検定で,軍による「集団自決」への関与・強制の記述を削除させた!


それに対し沖縄の怒りが爆発,11万人が結集した県民大会が開かれる. そんな中で「集団自決」の体験者が重い口を開き,新たな証言を語り出した. その新証言を受けて加筆・修正,「集団自決」をもたらした軍の命令・強制を疑問の余地なく明らかにする!



【高文研HP http://www.koubunken.co.jp/0400/0394.html より】


 

*1:1970/03/25

*2:『毒蛇山荘日記』,『従軍慰安婦の深層』を参考に作成しました

返信2008/01/25 17:16:57

4ni0615ni0615   3  Re:つかのまの愛

つかのまの愛

大江さんの典拠は銘記されてないが何か1970年当時の報道なのだろうか。

参考になるか、まず林博史さんのサイトから・・・

第二に指摘しておきたいことは沖縄戦との関係である。四人の体験に関わっている部隊は独立混成第四旅団の独立歩兵第一四大隊と見られる。この独立混成第四旅団は一九四三年六月に編成替えがなされて第六二師団(石部隊)の歩兵第六三旅団となり、引き続き山西省に駐留した。さらに北支の河南(京漢)作戦に参加した後、一九四四年八月沖縄に移動し、第三二軍のもとで沖縄防衛の任務についた。旅団首里北方の浦添、西原、宜野湾などに配備され、上陸してきた米軍と四五年四~五月にかけて激戦を重ね大打撃を受けた。そして旅団司令部や各独立歩兵大隊本部は六月二〇日前後に沖縄本島南部で最後の斬り込みを敢行しほぼ全滅した。


この第六二師団の会報『石兵団会報』(防衛研究所図書館所蔵)には日本軍将兵による沖縄住民に対する性的非行などの記事がたくさん掲載されている。そのいくつかを紹介しよう。

「姦奪ハ軍人ノ威信ヲ失墜シ民心離反若クハ反軍思想誘発ノ有力ナル素因トナルハ過去ノ苦キ経験ノ示ス所ナリ(中略)掠奪乃至強姦ノ域ニ達セズト雖モ之ニ近似セル所為ノミニテ軍ニ対スル反感ヲ醸成スルニ至ルベシ 且一部地域ニハ貞操観念弛緩シアル所アリ 之ガ誘惑ニ乗ゼラレ不知不識ノ間、猥褻姦通略取誘拐住居侵入等ノ犯罪ヲ犯スコトナカラシムルコト」「本島ニ於テモ強姦罪多クナリアリ 厳罰ニ処スルヲ以テ一兵ニ至迄指導教育ノコト」(第四九号、一九四四年九月七日)

空襲那覇宿営部隊ハ各々空家ニ宿営シアルモ無断借用シ或ハ釘付セル戸ヲ引脱シ使用シアリ 又家中ノ物品ヲ勝手ニ持出シ使用シアル部隊アリ 民間ニオイテハ『占領地ニ非ズ無断立入リヲ禁ズ』等ノ立札ヲ掲ゲアリ 注意ヲ要ス」「性的非行ノ発生ニ鑑ミ各隊此種犯行ハ厳ニ取締ラレ度」(第七九号、同年一〇月二六日)

こうした非行は第六二師団によるものだけではないが、沖縄に駐留していた日本兵による強姦や略奪などが頻発し、軍上層はくりかえし警告を発せざるをえなかった様子が伺われる。もちろん沖縄では女性を拉致するなどの行為はおこなわれなかったが、沖縄での日本軍のそうした乱暴な行為の背景に中国戦線での経験があったことは否定できないだろう。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper05.htm


1970年の『沖縄ノート』に遅れて、佐木隆三氏は別事例だろうが同じ62師団のことを、『沖縄住民虐殺』1976年で書いている。

敵にむけるはずであった武器をさかさまに持ちかえておこなった強姦

Odさんの証言・・・10・10空襲のあと

「(中略)

伊是名から帰ったのも、わしも日本人として恥ずかしくない行動をとろうと思ったからだが、家が焼けて母親は死んでおる。噂では十・十空襲の前の晩、軍は牛鳥司令官の音頭で波の上で大宴会をやってドンチャン騒ぎをやらかして、空襲の朝はみんな二日酔いだったんだ。くそったれ、とわしは思うたね。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=849&file=okinawa1010%E5%AE%B4%E4%BC%9A.jpg


兵隊たちを見ると、これがどうだ。軍物資を持ち出せる立場の者が、それで女を"買う"んだよ。商売女じゃない、後家やら娘やら追い回して、断わられたら強姦しよる。アメリカ兵じゃない、その前の日本兵だよ。わしは思うんだが、友軍の連中は、朝鮮とか台湾へ進駐したときと同じ気分で、植民地の人間みたいに沖縄人を見ておったんだな。


わしは防衛隊に召集されて、ギリギリの年齢だったからね。これはばからしい、ぜったい逃げてやると思ったんだ。わしがしなけれぱならんのは、妻子を守ることだけだ、ほかは知るもんか。そうだろう? 結果的に沖縄は、本土防衛に利用された。敵をなるべくここへ引きつけておくためにね。そして戦争の最中には、沖縄人は友軍のタマよけにされたんだ。友軍の正体が、わしには見えておったんだ」(沖縄住民虐殺p24)


・・・南部へ逃げ回って

西原村i南風原村-大里村-具志頭村と逃げまどい、六月の初めには真壁村(現在は糸満市)にある与座岳中腹の洞窟にたどりついた。与座岳は一六八メートル。ハブが多い山で、ふだんは人が近づかないところだった。


「そんなハブなんか、もうこわくないさ。わしらの洞窟には、初め二十二名だった。雨が降ると、どんどん水が流れこむ。みんな中腰にしゃがんで、息を殺すだけさ。わしは男でいちばん若かったから、自然にリーダーみたいになっていた。……友軍が逃げてくるまではな。兵隊がきたら、もうだめだよ。助け合っていた沖縄人同士、ばらばらにされてしまう。なんでも命令するんだよ、あいつらは。わしは、イモ掘りにやらされたよ、しょっちゅう。女房子どものために生命がけで掘ってきて、だれの口に入る? まず兵隊が奪うんだ。


具志頭では、赤ん坊がたくさん殺されたよね。子ども負ぶっている若い母親だけを集めて、栄養つけるといって注射してさ、なにが栄養なもんか、毒殺だよ。そして母親を、タマ運びやら炊事婦やら使っている。こんなことまでいいたくないけどね、なかには慰安婦同様に使われた母親だっている。鬼畜米英と教えこんでよ、アメリカ兵につかまったら女は片っぱしから強姦される、クロンポは赤ん坊を食いたがっている、なんて脅しておきながらよ。赤ん坊を殺して母親をそんな目にあわせて、なにが友軍なもんか。はっきりいって、わしはアメリカ軍より、日本軍のほうがシャクにさわる」(沖縄住民虐殺p27)

返信2007/12/06 22:59:43

5ni0615ni0615   1  パラドックス――軍命による『自発的な死』。

試論を書いてみました。

http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/415673/

返信2007/12/08 13:07:26

6ni0615ni0615   3  Re:『沖縄ノート』2007

返信2007/12/11 08:04:05

7ni0615ni0615   1  沖縄県内の慰安所(1944―45)

太田昌秀『死者たちはいまだ眠れず』(新泉社)p116―118 より

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=882&file=okinawa_iansyo.jpg

また、一九四三(昭和一八)年から勤労挺身隊として軍需産業に二〇万人の朝鮮人少女が動員されたとのことです。それとは別に、日本軍の管理下で戦場に動員され、従軍慰安婦として日本軍兵士を相手に強制的に売春をさせられた女性がたくさんいました。


鈴木祐子教授の『従軍慰安婦・内鮮結婚性の侵略・戦後責任を考える』(未來杜、一九九二年)によると、政策的に朝鮮女性たちが大規模な徴発を受けたのは、一九三八(昭和一三)年の初めからでした。


すなわち当時は、関東軍満州駐屯が長期化し、中国本土に多くの日本軍が投入されるにしたがい、長期的で大規模な戦争遂行のためには、軍人たちに対する統制と士気の振作が要求されました。しかし、日本本土の女性たちを強制的に引っ張ってくることはできなかったので、代わりに朝鮮の女性たちの徴発が始まったというわけです。信じがたいことですが、慰安婦の徴発のために、日本軍首脳と朝鮮総督府、日本の売春業者たちの間で秘密協定が結ばれて、女子挺身隊の徴発は本格化したとのことです。


その後、一九四四(昭和一九)年八月二三日付けで、勅令によって「女子挺身勤労令」が公布され、それにもとづいて女子挺身隊の徴発は、名実共に合法的政策として遂行されるようになりました。


沖縄の場合、首里域の地下司令部には、「朝鮮ピー」と蔑称され差別視される女性たちが二、三〇人ほどいました。わたしたち学生は、激闘の戦場にそぐわないその存在を奇異に感じいろいろと噂し合ったものでした。


沖縄県平和祈念資料館には、一九四四年末に守備軍配下部隊・第二四師団第三四七五部隊の「軍人倶楽部ニ関スル規定」という内部文書が収蔵されています。つまり、それは従軍慰安婦と軍の関係を示す証拠文書であります。いまでは、戦時中、沖縄各地に多数の慰安所が設置されていた事実も明らかになっています。



朝鮮人の戦死者を祀る慰霊の塔には、「韓国人慰霊塔」「青丘之塔」「アリラン慰霊のモニュメント」「アジア太平洋戦争沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨(はん)之碑」「痛恨之碑」などがあります。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=882&file=ariran_irei.jpg

返信2007/12/14 14:40:00

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返信2007/12/14 14:40:59

9ni0615ni0615   1  「日の丸」ときくと、すぐ思いうかべる事件がある

太田良博

『すべてのうしろには"菊"がある』―「日の丸」と沖縄戦―より

太田良博著作集3、p337-339


日の丸」ときくと、すぐ思いうかべる事件がある。

沖縄戦で悲惨な事件の数々を聞かされているが、これほど悲惨な話を私は知らない。沖縄戦に関しては、これまで二百冊前後の記録が出ているが、その中でたった一つ、この事件にふれているとおもわれるのがあるが、それも、それらしい事件があったことを臭わせているだけで、その真相は記されていない。つまり、この事件の真相は、これまで、私の知る限りでは、どの戦記にも書かれていない。この事件をにおわせた唯一の記録というのは、第三十二軍(沖縄守備軍)の高級参謀だった八原博通大佐の『沖縄決戦』である。それには以下のように記されている。

戦闘開始後間もないある日、司令部勤務のある女の子が、私の許に駆けて来て報告した。「今女スパイが捕えられ、皆に殺されています。首里郊外で懐中電灯を持って、敵に合い図していたからだそうです。軍の命令(?)で司令部将兵から女に至るまで、竹槍で一突きずつ突いています。敵慌心を旺盛にするためだそうです。高級参謀殿はどうなさいますか?」私は「うん」と言ったきりで、相手にしなかった。いやな感じがしたからである。(同書一八六頁)

高級参謀が司令部勤務の女子職員から報告をうけたという事件は、私が聞いたのと同一事件のようである。

私に事件の真相を語った当時の目撃者、K氏(弁護士)も、八原参謀の記述したのと同一の事件であると証言している。


K氏は当時、沖縄師範学校の生徒で、学徒動員兵として、首里洞窟司令部のなかにいた。「女スパイがつかまった!」というので、洞窟内からドヤドヤと野次馬がとび出した。K氏もその群集のなかの一人であった。場所は、洞窟司令部の南側斜面である。


憲兵に縄をうたれた一人の若い女が現われた。カーキー色の短かいパンツに短袖シャツ、一見、女子挺身隊員かとおもわれる服装である。小柄小肥り、みたところ二十五、六才の色白の女性で、頭髪はザンギリになっている。その女はたえず童謡を歌っていた。「ハトポッポ」を歌うかとおもえば、それがおわると「ギンギンギラギラ」と別の童謡を歌うといった調子である。精神異常の女だったのか、殺されることを予知して放心状態になっていたのかは、知るところではない。


女は、田んぼの近くの電柱にしばられ、そこに集まった連中に突かれることになった。まず、最初に突かせたのは、朝鮮人慰安婦である。朝鮮からつれてこられ、兵隊相手に売春をさせられていた娘たちに「日の丸」鉢巻をさせて、帯剣や竹槍などで、かわるがわる突かせたのである。


電柱にしばられていたのは、もちろん、沖縄の娘である。帯剣や竹槍の先が、女の胸や腹部にプスッぷすツとささるごとに、鮮血が噴出して、シャツをそめる。そのたびごとに、女は「痛い」「痛い」と悲鳴をあげる。わめく。だが、突くほうも女である。力が弱いので致命傷にならない。なぶり殺しの形になった。日本の封建武士社会では、竹光による切腹が最も惨酷な刑罰であったようだが、それに劣らぬ惨酷刑である。処刑されている女性は、かなり生命力があったようで、なかなか死ねない。それだけ長い時問、苦しんでいたわけだが、かなり突かれて、ついに悲鳴もだんだんか細くかすれ、ついにぐったりしてしまった。その時である。一人の若い将校が縄をといて、「立てツ!」と鋭く気合いをかけた。すると、ほとんど死んだと思われた、その若い女性は、すくっと立ち上った。それには、みんなおどろいたようである。見物の群集の中から、低いどよめきのようなものがおこった。「歩けッ!」声がかかると、女はよろよろと歩き出した。「坐れッ!」女は田んぼの近くの草むらの上に端坐した。端坐したのである。そのとき、例の将校は、みんなに聞こえるような声で、「おれは、剣術は、あまり上手じゃないがのう」と言いながら、腰の軍刀をサッと勢いよく抜き放った。得意然というか、今の言葉で言えば、カッコよい動作をしたわけである。そして斬首!


首と胴体が離れた女の屍体は、泥田のなかにころがされ、みんなにふんずけられた。ふめ、ふめといわれて、つぎつぎに、この野郎とか、売国奴とかののしりながら、田んぼにころがされ、半ば泥のなかに沈んだ、女の屍体をふんずけた。その屍体は、泥のひとかたまりになり、もはや人間の形の見わけもっかないほどになった。


朝鮮慰安婦に「日の丸」鉢巻をさせて、沖縄娘をなぶり殺しにさせた日本軍の演出は実に象徴的である。殺された女がスパイだったという確証があったはずもない。

※ dempaxさんのご指摘により修正しました。 大田良博→太田良博

返信2007/12/18 09:36:47

10dempaxdempax   9  著者名訂正兼著作物一覧

大田良博 → [訂正後]太田良博[1918-2002]



千葉市図書館 https://www.library.city.chiba.jp/ 検索結果


浦安市図書館 http://library.city.urayasu.chiba.jp/ 検索結果

  • 沖縄の遊廓 新聞資料集成辻・仲島・渡地・各地の料理屋(魚屋)事情』 太田良博/佐久田繁 編著 月刊沖縄社 1984.12
  • 『異説・沖縄史 陰の王国「那覇朱明府」』太田良博/著 月刊沖縄社 1980.1
  • 沖縄にきた明治の人物群像』 太田良博/著 月刊沖縄社 1980.2

国立国会図書館NDL-OPAC http://opac.ndl.go.jp/ 検索結果





原爆戦争責任 2007/10 [沖縄戦] http://blog.goo.ne.jp/stanley10n/c/07dec11bb5f92971c581316a327372fe

赤松の弁護などは,作家本来の仕事ではあるまい. ドレフュス事件のゾラや松川事件の広津和郎の例はあるが,いずれも国家権力に対して被害者を弁護したのである. 曽野さんの『ある神話の背景』は,国家権力の具現者であった赤松の不当な加害行為を弁護しているのである. こういう弁護はゾラや広津もさけるであろう. 曽野さんは土俵をまちがえたと言わざるをえない.


美しい壺日記

返信2007/12/17 17:19:39

11dempaxdempax   3  「内地」と「軍の法」

いま≪沖縄ノート≫を刊行して,ひとつの作業を終えた,という感慨とはおよそ逆に,これから,自分のあたうかぎりの力をそそいで,たちむかわねばならない仕事がはじまる,という緊張感をいだいている. いうまでもなく,一箇の小説家のやることにすぎないのであるから,客観的には,いったいなにほどのことをまえにして不安に緊張しているのかと,滑稽に見えることであろう. そして,ぼく自身,そういう滑稽さを身のまわりにまといつかせたまま,生きてゆくほかはないし,ちかごろでは,むしろすすんで,そうした滑稽さと共にありたいとねがうようになった. したがって,問題は,ぼくの主観にかかわってのことなのではあるが,いったん書物を刊行すると,それは,赤裸の主観にむけて,投げかえされるツブテの雨にさらされる状態になった,ということである. とくに沖縄からのツブテについて考えると,緊張することなしではいられないのである. そしてその緊張とは,期待の緊張でもあるのであって,ぼくは,そのような緊張のなかにはじめて,自分の想像力をためすヤスリを見出す.


その緊張感のうちにあってのことではあるが,故広津和郎の『さまよへる琉球人』復刻*1をめぐっての,たまたま『毎日新聞』にのった,ぼくの「談話」に,「内地」という言葉があらわれるのを読んだ時には,おもてをあげていられぬ気持をあじわった. 外地--内地の対比において沖縄を考えるところの植民地主義めいた,あやまった感覚こそ,ぼくの排撃したいものであるからである. ぼく自身が,あたかも,そのような言葉を,不用意につかう人間であるかのごとくに誤解されることを,ぼくは恥辱とする. あわせて,この植民地主義的な言葉が,いま,あらためて,抵抗感なしに,自分と同世代のものたちのなかに,通用しはじめていることを,恥辱とする.


『さまよへる琉球人』復刻の意味あいについては,すでに『群像』にぼく自身の考えかたをのべたが,この小説と,それへの沖縄からの抗議,そして広津和郎の美事な責任のとりかた*2の,全体が,あらためて提示されるということは,一九七〇年代のいま,ほかならぬ今日のすべての日本人に,正面からそれにたちむかうべき課題として,まだ決して完結していない,広津和郎沖縄知識人の問いかけ合いが,生きた血液をかよわせつつ,よみがえる,ということなのである.


七二年の施政権返還にむかって,まことに激しい洪水がうずまいている,日本本土--沖縄の相互関係の現場に,あたかもなお活動をつづける,誠実な知識人としての広津和郎の肉体が,くっきり浮びあがって,さあ,あなたたちはどうです,きみたちはどうなのだと,まっすぐ問いかけてくる,ということなのである. その問いかけの声を聞きつつ,ぼくはあらためて「内地」と要約されるようなことになった自分の「談話」に恥辱の思いをいだく.


もうひとつの,やはり沖縄への日本人一般の感覚にかかわって,どす黒くよどんでくる思念をさそうきっかけは,ひとりの女性知識人からの思いがけぬ電話をつうじてやってきた. ぼくは沖縄戦における日本軍人の,沖縄の住民に課した,差別的な犠牲について,ほかならぬぼく自身をふくめた,いったい日本人とはなにか,という,にがいあじのする自省を≪沖縄ノート≫に書いたのである. それについての反応が,戦時の軍隊の法によって,あの日本軍人は縛られていたのだと,教示してくれるための電話となってあらわれたわけであった.


ぼくはこの女性知識人にたいして,なにごとかを考えるのではない. 一般化して,さてわれわれの年代の日本人が,というふうに,自分の暗い思念を追うのであるが,いったい,沖縄における,軍人の自己保全のために住民が強制された,集団自決について考えつつ,その住民たちにむけて想像力をはたらかせるかわりに,軍人が,軍隊の法によって,そのようにせざるをえなかったのだと,その軍人を「理解する」ことができる,というのは,この二十五年間,無疵で生きのびえた,日本人のうちなる,あるグロテスクなものを思わせないであろうか.


植民地はなくなったが,植民地主義的な意識構造はのこっている. 旧軍隊の法は実在しないが,個人の倫理的想像力によって責任をとる態度のかわりに,天皇制を頂点とするタテの筋みちをもった仕組みにわれとわがみを埋没させようとする意識はのこっている. 飛び石のように戦後二十五年をのりこえて,われわれの年代の日本人にのこっている.


それが日本人なのだ. 日本人とはそのような意識構造において,まったく独特なのだと,沖縄からの声が,もっとも硬く激しい勢いをもったツブテをなげかけてくるのを,ぼくは予期せずにはいられないのである.



【出典:大江健三郎『鯨の死滅する日 全エッセイ集 第三』(文藝春秋 1972/02/10 BOOK-OFF価\400+悪税)p.145-147 『沖縄経験 同時代論集4』(岩波書店 1981/02/26) 未収録  所収か否かは現品未確認  / はてな形式の注は写経にあたって『廣津和郎全集』中央公論社のあとがきを参照して,投稿者が追加した】


 

 

*1:『新沖縄文学17 夏季号』1970年8月 沖縄タイムス

*2:『廣津和郎全集 8評論1』中央公論社1974/02/10 p.509-517「沖縄青年同盟よりの抗議書」=大正15年5月『中央公論』に発表『自由と責任とについての考察』1958年4月 中央公論社/『宇野浩二広津和郎集』1971年9月 筑摩書房/『新沖縄文学17 夏季号』1970年8月 沖縄タイムス社所収

返信2008/01/08 17:15:57

12ni0615ni0615   11  Re:「沖縄ノート」と、その後

2007.11.9大阪地裁大江健三郎証人陳述書より

 私は一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会で、二人の小説家とともに、沖縄本島石垣島に旅行しました。この旅行に先立って沖縄について学習しましたが、自分の沖縄についての知識、認識が浅薄であることをしみじみ感じました。そこで私ひとり沖縄に残り、現地の出版社から出ている沖縄関係書を収集し、また沖縄知識人の方たちへのインタヴィユーを行いました。『沖縄ノート』の構成が示していますように、私は沖縄の歴史、文化史、近代・現代の沖縄知識人の著作を集めました。沖縄戦についての書物を収集することも主な目標でしたが、数多く見いだすことはできませんでした。


 この際に収集を始めた沖縄関係書の多くが、のちの『沖縄ノート』を執筆する基本資料となりました。またこの際に知り合った、ジャーナリスト牧港篤三氏、新川明氏、研究者外間守善氏、大田昌秀氏、東江平之氏、そして劇団「創造」の若い人たちから学び、語り合ったことが、その後の私の沖縄への基本態度を作りました。とくに沖縄文化史について豊かな見識を持っていられた、沖縄タイムス社の牧港篤三氏、戦後の沖縄史を現場から語られる新川明氏に多くを教わりました。


 そして六月、私は自分にとって初めての沖縄についてのエッセイ「沖縄の戦後世代」を発表しました。タイトルが示すように、私は本土で憲法基本的人権と平和主義の体制に生きることを表現の主題にしてきた自分が、アメリカ軍政下の沖縄と、そこにある巨大基地について、よく考えることをしなかったことを反省しました。それに始まって、私は沖縄を訪れることを重ね、さきの沖縄文献に学んで、エッセイを書き続けました。


 本土での、沖縄への施政権返還の運動にもつながりを持ちましたが、私と同世代の活動家、古堅宗憲氏の事故死は大きいショックをもたらしました。古堅氏を悼む文章を冒頭において、私は『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載し、一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書として刊行しました。


 私はこの本の後も、一九七二年(昭和四十七年)刊行のエッセイ集『鯨の死滅する日』、一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』、二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』において、『沖縄ノート』に続く私の考察を書き続けてきました。とくに最後のものは、『沖縄ノート』の三十年後に沖縄に滞在して「朝日新聞」に連載した『沖縄の「魂」から』をふくんでいます。


 この裁判を契機に、多様なレベルから『沖縄ノート』に向けて発せられた問いに答えたいと思います。


(つづく)

  • 一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会
  • 一九六五年(昭和四十年)六月、エッセイ「沖縄の戦後世代」
  • 一九六九年 『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載
  • 一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書沖縄ノート
  • 一九七二年(昭和四十七年)刊行エッセイ集『鯨の死滅する日』
  • 一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』
  • 二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』(含む『沖縄の「魂」から』)


http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html#tokusyu

http://d.hatena.ne.jp/ni0615/20071221

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/897.html

返信2007/12/23 12:41:33

13ni0615ni0615   1  Re:梅澤元少佐が記した『座間味島の慰安婦』

(上記書)

同じかつお節の名産地だった座間味村では村民のうち百五十五人が悲惨な自決を遂げている。


昭和十九年九月十日、梅沢少佐の率いる約一千人の陸軍部隊が座間味本島と、阿嘉島、慶留間島に駐屯してきた。陣地構築や弾薬倉庫の建設がはじまり、昭和20年の3月23日に米軍空襲によって部隊が全滅するほどの被害をうけ、住民23人の死者を出している。


座間味村でも軍命によって村民283人が自決し、村役場三役手榴弾で自決した。

阿嘉島では八月まで米軍に抵抗し、二百人が戦死し、座間味本島では三百人が戦死している、当時、阿嘉島には古賀少佐が率いる九百人の設営隊と特幹隊四百人が駐屯していた。

 

これらの軍隊相手として、海に面した慰安所が設けられ、朝鮮人慰安婦が使われていたのである。

 

私は「朝鮮人沖縄戦」を書くため兵庫県にいる梅沢少佐を訪ねたことがある。彼は失そうしたのでなく、米軍に投降していたのである。朝鮮人女性(慰安婦)が負傷していた彼を山中で、最後まで介抱していたことが分った。彼女は朝鮮出身者で、女学校を卒業したインテリ女性であったといわれる。

その梅澤少佐は、41年後の1986.3 沖縄資料編集所紀要11 に手記を寄せているが、http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1002.html


そのなかで、座間味島着任後の慰安婦のことについて次のように記している。

昭和20年2月)

 私は残留約二百八十名を指揮下に入れた。不足労力を補う為朝鮮人軍夫百人が来援した。間もなく比島戦始まる。リンガエン上陸戦にて我等と同種戦隊が出撃したが殆ど不成功でこの秘部隊は米軍の知る処となる。 (当時この戦隊は全国に三十あり、ケラマは座間味、阿嘉、渡嘉敷に各一、本島に三ケその他は此島、内地にあつた)。私は比島の事で米軍沖縄の戦隊を調査する。我企図は察知されるだろうと判断した。果してそれから米機の偵察が始まり写真撮影が行われたのだ。その後空襲が二、三回あり兵舎の学校も焼失、我々は村落内に舎営し分散した。之が為老人婦人達は若い兵を息子の様に大事にして戴き双方食い物を頒ち合い甘味品を分け合ったものである。空襲で優秀な鰹舟が煙を発したのを見て隊員は危険の中を飛び込み消し止めた。之も村民に対する感謝の気持の現れだった。舟はその後崖下に秘匿し戦後も活躍した由である。軍司令部は若い将兵を思ってか女傑の店主の引率する五人の可憐な朝鮮慰安婦を送って来た。若い将校は始めて青春を知ったのだ。


米軍上陸後のこととしては、

(3月27日より)

之より連日圧倒的に優勢な空、陸、海の包囲攻撃で逐次斃され、収容に由なく、弾薬尽き、加ふるに敵に降った村民より聞き出し、彼等は糧秣の秘匿壕を黄燐弾で焼き払ったので飢餓状態となった。村民は次々と投降したが止めなかった。しかし民間防衛隊、女子青年団はよく協カした。基地隊の朝鮮人軍夫百名は壕や陣地構築によく働いたが、敵上陸前夜動揺甚しとの報告を受けた。彼等なりに情報があった様で、日本の敗戦近しとして投降の徴がある、処刑すべきかとの報告があったが、日本人でもない彼等は既に戦力にはならぬ、処刑不可、追放せよと命じた。彼等はすぐ逃げて行った。前記慰安婦にも軍夫を放すから自由にせよと伝えた。既に日本兵と懇になった者もあり淋し相であった。すぐ米軍に行かず山林中を暫くさ迷った後四名が投降した由。一名が重傷の将校を看取ると云って離れず後二人で手榴弾で自決した。


 哀話ではないか。女傑の主人は本部と行動すると云い去らず将校軍服を着用して看護に炊事に大いに働いた。後私が負傷後はつき切りで看護してくれた。


この「女傑」が梅澤少佐とともに米軍に投降した朝鮮人慰安婦(プレイングマネジャー=楼主でもある)である。おそらく『赤瓦の家』には通名が載っているはずだが。

返信2008/02/06 19:16:43

14ni0615ni0615   13  Re:Re:梅澤元少佐が記した『座間味島の慰安婦』

(昭和20年2月)

 私は残留約二百八十名を指揮下に入れた。不足労力を補う為朝鮮人軍夫百人が来援した。間もなく比島戦始まる。・・・軍司令部は若い将兵を思ってか女傑の店主の引率する五人の可憐な朝鮮慰安婦を送って来た。若い将校は始めて青春を知ったのだ。

5人の朝鮮人慰安婦が『性』を賄った座間味島将兵の数

梅澤 裕少佐 隷下の将兵

http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/451057/


海上挺進第一戦隊 戦隊長 梅澤 裕少佐(52期) 戦隊長以下104名 特攻艇100隻 120キロ爆雷210個 装備 機関短銃9 のほか、各人拳銃(弾薬数発)、軍刀、手榴弾を携行。

配属部隊

勤務隊(海上挺進第一大隊の残留部隊)     

備中隊(海上挺進第三大隊の残留部隊)

人員 両隊合わして約250名     

装備 両隊合わして 重機関銃2、軽機関銃5、小銃約200、擲弾筒2、無線機

特設水上勤務第103中隊(第二小隊 第三小隊(1分隊欠)欠) 中隊長 市川武雄中尉 将校下士官、兵計約40名小銃約40 朝鮮人軍夫約300名、武器はない

船舶工兵第26連隊第2中隊第1小隊 小隊長 乳井久男少尉以下約50名 上陸用大発動機船3隻、重機関銃1、軽機関銃1、小銃約50、手榴弾100    

船舶工兵第26連隊第2中隊の寺師小隊 海軍砲を大発3隻で沖縄本島から座間味島に輸送し、揚陸待機中に米軍の来攻を受け海上挺進第一戦隊長の指揮下に入って戦闘したもので人員装備は明らかでない

返信2008/02/08 13:55:55

15zames_makizames_maki   沖縄戦当時の従軍慰安婦

「孤児院で子の世話」/沖縄戦当時の従軍慰安婦

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803161300_04.html

沖縄タイムズ2008年3月16日(日)朝刊 26面

韓国のナヌムの家・日本軍慰安婦」歴史館の研究員らが県内の慰安所跡や「従軍慰安婦」にされた女性たち、朝鮮人軍夫についての聞き取り調査を始めている。同館のリニューアルに向け、沖縄戦当時の慰安婦の状況や新たな証言をまとめ、展示する予定だ。同館の村山一兵研究員は「沖縄戦中の慰安婦の状況について詳しくまとめ、六月ごろから展示したい」と準備を進めている。


調査は十四日から十七日までの四日間。初日は一九四五年ごろ、羽地村(当時)の田井等孤児院で過ごした座覇律子さん(75)=本部町=と、沖縄戦中に朝鮮人軍夫が働く港近くに住んでいた友利哲夫さん(75)=名護市=が証言した。当時十三歳だった座覇さんは孤児院で元慰安婦だった女性らに育てられた状況を説明。「ササキのおばさん」と呼ばれていた元慰安婦について「日本語は分からないが、子どもたちの洗濯や世話をしてくれた。美人で、とても優しかった」と振り返った。


孤児院近くにあった野戦病院でも元慰安婦の女性が看護師として働いていた。座覇さんは、孤児院を出た後に周りから女性らが慰安婦だったことを聞かされたといい、「慰安婦と言われてもまだ幼かったので、女性たちが何をされていたのかも分からなかった」と語った。戦後、女性らが帰国する記事を見て、「当時は無事に帰国するんだと思ったが、女性が大変なことをされたことを後で知った。今、当時を振り返ると帰国後どんな気持ちで暮らしているのかと思うと胸が苦しい」。ナヌムの家には現在、慰安婦にされた女性七人が生活している。同館には、渡嘉敷島慰安婦として働かされたぺ・ポンギさんの生涯が展示されている。



従軍慰安婦の歴史継承訴え/平和会、街頭で寸劇

 平和運動に取り組む県内の大学生などでつくる「平和(ぴょんふぁ)会」メンバー約三十人は十五日、那覇市国際通り周辺で、歴史教科書から削除された従軍慰安婦問題の継承を訴える寸劇や歌を披露した。「もうやめよう、慰安婦問題と性暴力」のメッセージや亡くなった慰安婦の写真などを掲げ、「日本軍に強制連行された被害者は戦後ずっと苦しんできて、今でも誤解や差別を受けている」と訴えた。歴史継承の思いを込めた「継いでゆくもの」を合唱。従軍慰安婦として連行された朝鮮人の女性が、周囲の人から差別される様子を表現した寸劇が演じられた。

返信2008/03/24 17:38:00

16StiffmuscleStiffmuscle   宮古島の「慰安婦」記念碑序幕式

従軍慰安婦の祈念碑除幕 沖縄県宮古島 (47 NEWS - 2008年9月7日)

 太平洋戦争当時、沖縄県の宮古島に駐屯した旧日本軍の従軍慰安婦だった朝鮮半島出身女性らを記憶し、平和への思いを刻もうと、地元住民や日韓両国の研究者らが建立した祈念碑の除幕式が7日、同島であり、日韓から計約100人が参列した。

 宮古島には飛行場建設や島の防衛のため3万人規模の日本軍が駐留。中原道子早大名誉教授らが聞き取り調査した住民証言などから、島内に少なくとも16カ所の「慰安所」があったことが分かっているという。

 少年期に慰安婦にトウガラシをあげるなど交流があったという与那覇博敏さん(75)が、石碑のために宮古島市上野野原の土地を提供。「女性たちが水くみの帰りに木陰で休んでいた姿を覚えている。『坊や』などと日本語で声を掛けられた」と振り返り、式典では「悲惨な戦時中の状況や慰安所が存在したことを後世に伝える責任を感じる」と語った。

 石碑には日本語のほかハングルや中国語など12カ国語で「日本軍による性暴力を受けた一人一人の女性の苦しみを記憶し、二度と戦争のない平和な世界を祈る」などと刻まれた。

返信2008/09/07 20:35:27

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返信2008/09/07 20:38:01

18ni0615ni0615   16  Re:宮古島の「慰安婦」記念碑序幕式

沖縄ノート裁判結審(9・9結審、10月31日判決)のニュースを捜していてみつけました。

琉球新報の記事2通も入れておきます。


慰安婦の碑」建立へ 心体の傷いえず2008年9月7日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-136016-storytopic-1.html

http://ryukyushimpo.jp/uploads/img48c337d7c6590.jpg

【写真あり】涙ながらに証言する朴順姫さん=6日、宮古島市平良宮古島マリンターミナル


 【宮古島宮古島市民や日韓研究者らでつくる「宮古島日本軍慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦宮古に連行された歴史を伝える「日本軍慰安婦』の祈念碑」を12カ国約600の個人・団体からの賛同を得て同市上野野原に建立する。同会によると同様の祈念碑建立は国内初。建立前日の6日、同市平良で証言会があり、満州へ強制連行された元朝鮮人慰安婦が涙ながらに自身の悲惨な体験を語った。


 証言したのは1939年冬―45年秋の約6年間、日本軍慰安婦として満州に強制連行された韓国人の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)=ソウル市。祈念碑建立に合わせ「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」の呼び掛けに応じ、初めて海外で証言した。高校生を含め、多くの市民が聞いた。


 韓国平安南道元山で生まれた朴さんは16歳の時に強制連行された。当時について「隣町に住む友達の家へ遊びに行く途中で日本の憲兵2人に『こっちに来い』と言われた。そのまま日本人の部屋に何日間か閉じこめられ、列車で中国へ連行された」と説明した。


 満州では「着いた日からたくさんの日本人が(慰安所に)並んでいた。私は(性的)経験が無く、苦しくて反抗すると、軍人が私を包丁で刺した。今も傷跡が残る。一般兵も将校も来た」とつらい体験を告白した。


 慰安所の生活は「6年間、外に出られず、どこにいるのかも分からなかった。外を見ることを許されたのは、1週間に1回、子宮の検査で病院に行く時だった」と振り返る。


 朴さんは1945年に慰安所を飛び出した。「帰るための列車に乗ると妹に似た人がいた。名を呼ぶと、(妹は)びっくりして顔を見た。そこで(妹も)強制的に連れてこられて慰安婦にされたことを知った」。朴さんの父は娘たちが慰安婦にされたことを知って怒りのあまり、4日後に亡くなったという。


 最後に日本政府へ向けて「生きている間に心からの謝罪と公式な補償をしてほしい」と訴えた。


 会場からは勇気ある証言に拍手が送られ、証言を聞いた宮古高1年の奥平彩芽さん(16)は「(同年代のころに連行されたことを聞いて)ショック。あらためて戦争の恐ろしさを感じた」と語った。(古堅一樹)


哀史刻み、伝える 日本軍慰安婦」の祈念碑除幕2008年9月8日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-136046-storytopic-1.html

 【宮古島日韓研究者宮古島市民らでつくる「宮古島日本軍慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦宮古に連行された歴史などを伝える「日本軍慰安婦』の祈念碑」の除幕式を同市上野野原で開いた。同会によると、アジアを中心に12カ国約600の個人・団体から賛同を得ており、同様の碑は国内でも例がないという。


 碑は3種類。「女たちへ」と題した碑文は、戦時中の女性への性暴力の悲惨さや平和の大切さを訴えた。その両脇の碑文に日韓やタイ、ベトナムなど12カ国語で「全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世の中を祈ります」と記した。宮古島で「朝鮮人慰安婦」が歌っていた「アリラン」を伝える「アリランの碑」も建立された。


 碑建立は、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の学生、洪允伸(ホンユンシン)さんらが2006―07年、宮古島で「慰安婦」に関する証言の聞き取りを地元住民の協力を得て実施したことなどがきっかけ。


 証言者の一人、与那覇博敏さん(75)が自らの所有地で、小学5年生ごろに「慰安婦」を目撃した場所を建立地として提供することを申し出た。日韓研究者らも賛同し今年2月に建てる会を発足、寄付を募った。


 除幕式は伊志嶺亮市長や宮古での「慰安婦」の様子を証言した住民、韓国から満州へ連行された元「朝鮮人慰安婦」の朴順姫(パクスンヒ)さん(85)らも参加し碑に献花。宮古高校吹奏楽部の演奏で「アリランの歌」を斉唱した。


 建てる会の尹貞玉(ユンジョンオク)さん=「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」元共同代表=は「世界各国からここへ来て平和を考える場所になることを願う」、与那覇さんは「この場所を平和への活動の出発点にしたい」と呼び掛けた。(古堅一樹)

返信2008/09/10 08:08:29

19noharranoharra   18  宮古「慰安婦」 4年かけ報告書完成

9月7日10時15分配信 琉球新報

宮古慰安婦」 4年かけ報告書完成

洪さん(左から2人目)と証言者の佐和田さん(左端)、佐久田さん(同3人目)、伊良部さん=6日、宮古島市上野野原

 【宮古島日韓研究者宮古島市民らが昨年9月、同市上野野原(のばる)に建立した「日本軍慰安婦』祈念碑」1周年記念の集いが6日、同祈念碑前で行われた。日韓共同調査団は、同市内各地で慰安婦の目撃証言や慰安所跡の分布図などをまとめた報告書の完成も紹介した。報告書は地元住民らの証言、慰安所の分布を記録し、日韓の各視点を交え1冊にまとめた貴重な資料として期待される。

 報告書の題名は「戦場の宮古島と『慰安所』」(なんよう文庫)で2006年から08年にかけての聞き取りでまとめた。9月中旬から県内各書店で発売される。宮古島伊良部島の各地にあった慰安所に関し、住民ら25人の証言や解説文などを掲載している。

 編集を担当した早稲田大学大学院の博士課程の学生、洪〓允伸(ホン・ユンシン)さんは「報告書は碑建立と同時進行で動き、宮古の証言者や日韓沖縄の人が一緒に作ったことに意味がある」と強調した。

 集いでは尹貞玉(ユン・ジョンオク)さん(「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」元共同代表)ら関係者が碑に献花し手を合わせた。報告書で掲載された証言者のうち佐久田玄徳さん、伊良部ミヨさん、佐和田豊三さんも紹介された。

 6歳のころに慰安婦を目撃したという佐和田さんは「大人たちに言われて『朝鮮ピー』と差別的な呼び方をした。当時の残忍な行為に良心がとがめるので証言した。政府は謝罪するべきだと思う」と強調した。

※注:〓は王ヘンの右に「允」

最終更新:9月7日10時15分

琉球新報

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090907-00000002-ryu-oki

返信2009/09/07 19:13:12